町並みの今昔 旅館編

山田駅前 中村屋旅館 外宮参道 和洋食堂中村

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伊勢市駅前の外宮参道沿いにある「旅館なかむら館・和洋食堂中村」の看板が掲げられた建物の現在の画像です。今回はこの戦後は旅館なかむら館・和洋食堂中村として営業していた「中村屋旅館」をご紹介します。

明治44年(1911年)6月に東陽堂から発行された「風俗画報 皇后陛下伊勢行啓図会」に掲載されている「山田御着前駅前奉迎の光景」の画像です。皇后陛下が山田駅に到着されたのは明治44年5月20日でありました。

「山田御着前駅前奉迎の光景」を拡大した画像です。右側の「旅館中村屋」の看板が掲げられている2階建ての建物が開業時のものだと思われます。奉迎門の奥に見えるのが当時の山田駅(現在の伊勢市駅)の建物です。

明治30年(1897年)11月に山田駅(現在の伊勢市駅)が開業し、その2年後の明治32年に現在の外宮参道が開通しました。その前後に宇仁館支店油屋支店高千穂館支店松島館支店などが参道沿いに次々に開業し、その頃に中村屋旅館も開業したと思われます。

山田駅前の変遷②でもご紹介した大正4年(1915年)11月10日のスタンプ印のある絵はがき「御大典神都行幸 山田驛前奉祝菊花門」の画像です。この日は大正天皇の即位の礼が行われた日になります。

「御大典神都行幸 山田驛前奉祝菊花門」を拡大した画像です。この画像では中村屋旅館は3階楼に建て替えられています。

大正7年(1918年)8月14日のスタンプ印のある「山田停車場前通」の絵はがきの画像です。このときはまだ宇仁館、高千穂館は2階建てなので左側5軒目の中村屋旅館も目立ちますね。

大正7年4月以降に発行された絵はがき「伊勢山田駅前 中村屋旅館正面」の画像です。立派な3階楼になります。

山田駅前の変遷③でもご紹介した昭和7年(1932年)1月10日のスタンプ印のある絵画研究会印刷の絵はがき「旅館、土産物店櫛比殷賑を極む山田驛前通り」の画像です。

宇仁館支店が大正8年(1919年)ころに3階楼へ、高千穂館支店が昭和2年(1927年)12月(出典:いにしえの伊勢)に3階楼と4階建ての洋館に建て替えられたので、中村屋旅館は目立たなくなってしまいました。

昭和11年(1936年)6月に東京観栄旅行会から発行された「伊勢参宮及び鳥羽、二見浦 記念写真帖」に掲載されている「旅館中村屋」の画像です。駅前から撮影した画像では建物は目立たなくなりましたが、単独で見るとやはり立派にみえます。

昭和20年(1945年)の戦災により山田駅はじめ、宇仁館、油屋など焼失しましたので、このときに中村屋旅館も焼失したと思われます。

神都線山田駅前跡でもご紹介した昭和34年(1959年)6月に撮影された外宮参道の画像です。

神都線の電車で隠れてしまい高千穂館の看板の後ろに屋根だけが見えるのが、戦後に再建された現在の建物になります。その奥に白く見える建物と屋根が三角の建物が元三重県立商品陳列所になります。

「山田御着前駅前奉迎の光景」と同じ角度で撮影した現在の画像です。右側の白い建物が旅館なかむら館・和洋食堂中村になります。

昭和後半から平成前半にかけては、北隣りにオカダヤ(後のジャスコA館)、南隣りにパーキングビルが開館、閉館・解体されるなど周りは目まぐるしく変遷をしてきましたが、中村屋の建物だけはそのままでした。

その後、旅館なかむら館を廃業して和洋食堂中村だけ営業を続けていましたが、現在では食堂も廃業しています。

建物の南側には営業していた当時の看板が遺されています。

出典:sadanai氏ホームペジ いにしえの伊勢、明治44年 東陽堂発行 風俗画報 皇后陛下伊勢行啓図会、wikipedia

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