前回、山田駅前(現在の伊勢市駅前)航空写真②では大正7年から大正8年ころに撮影された絵はがき「空中ヨリ見タル宇治山田市」に写る建物の屋号を地上から撮影された絵はがきの画像などを元に照合してみました。今回は説明不足だった大宮館、魚清館の変遷や、さらに外宮寄りにあった旅館などの位置関係などを検証してみたいと思います。
前回もご紹介した大正中期ころに発行された絵はがき「伊勢山田驛前」の画像です。
左側の並び(山田駅側から見ると右側)を拡大した画像です。一番手前の看板は文字が消されているのか読み取りづらいのですが漢字の輪郭から「魚清館」と書いてあると思われ、一番手前の建物に付いていると思われます。次に見える看板は電柱の陰に半分隠れていますが「魚清館」と読み取れますので魚清館には2つの建物があったと推測されます。
大正元年(1912年)10月に神都興信所から発行された「宇治山田商工人名録(明治45年(1912年)7月1日現在)」の本町の項に「旅館 魚清館 八木清三郎」とあります。屋号はありませんが「魚商兼旅館 八木仙吉」という名前もあります。
大正3年(1914年)9月に実業興信所から発行された「宇治山田商工人名録(大正2年度現在)」では「魚商兼旅館 魚清館 八木清三郎」とあり「魚商兼旅館 八木仙吉」の名前が記載されていないので、推測の域ですが魚清館が隣りにあった八木仙吉を吸収したとすると建物が2棟あることと辻褄が合います(建物の左右は不明)。
昭和10年(1935年)ころに宇仁館から発行された絵はがきセットのうち「宇仁館別館 橘屋」を拡大した画像です。
藤屋と魚清館の間にあった屋号不明の2階建ての建物は昭和初期には3階建ての大宮館になり、昭和10年ころまでには宇仁館へ経営が変わり宇仁館別館・橘屋となりました。右隣りは昭和9年2月に火災により全焼してしまい、新しく建て替わった藤屋の建物(3代目)です。
昭和10年ころに宇仁館から発行された絵はがきセットのうち「宇仁館別館 菊屋」を拡大した画像です。
大正12年(1923年)に東京交通社から発行された「大日本職業明細図 宇治山田市 鳥羽町 二見町 松阪町」に描かれた地図では「魚清館」になっていて、昭和6年(1931年)5月に宇治山田商工会議所から発行された「宇治山田商工案内」に「本町 伊勢屋 八木清三郎」とありますので、この間に2階建ての2棟だった魚清館は立派な門を構えた3階建ての伊勢屋に建て替えられました。
さらに昭和8年から昭和9年ころに伊勢屋の建物は宇仁館に売却され宇仁館別館・菊屋となり、伊勢屋は伊勢屋本店となり二見浦に移転しました。
二見浦 伊勢屋本店跡でもご紹介した伊勢屋本店発行の絵はがきセットのうち「伊勢山田駅前通り 伊勢屋支店」の画像です。
斜めに印刷されている伊勢屋支店の画像を真っ直ぐにしてみました。看板はまだ「旅館 吉野館」となっています。大正11年(1922年)10月に三重県勧業協会から発行された「三重県商工案内」に「本町 伊勢屋旅館 吉野館 魚清旅館合名会社」とありますので、経営は一体で魚清館グループを形成していました。伊勢屋が宇仁館に売却されたころに吉野館を伊勢屋支店に屋号変更したと思われます。
伊勢屋支店の建っていた場所は、伊勢屋(後の菊屋)から2軒屋号不明の建物があり、御塩道を挟んだ角になります。伊勢屋支店は昭和12年ころまでには佐伯館別館になっていたと思われ、現在は駐車場になっております。
大正12年(1923年)に発行された「大日本職業明細図 宇治山田市 鳥羽町 二見町 松阪町」に描かれた地図では伊勢屋は吉野館の筋向かいにあり、現在はビルが建っております。右奥にはせせらぎ橋があります。
昭和6年5月に宇治山田商工会議所から発行された「宇治山田商工案内」に「本町 勢州館 八木仙太郎」とあり、魚清館が伊勢屋になった後は初代・伊勢屋は勢州館に屋号変更されました。2代目・伊勢屋が宇仁館に売却されたころに勢州館も売却されと思われます。
以上の資料を元に旅館・土産物店の屋号、変遷を書き入れてみました。
昭和28年から昭和33年ころに伊勢本通り会が発行したパンフレット「国立公園 伊勢」にある地図の画像です。戦後の商店名はこちらの地図を参考にしました。
左側の屋号一覧を拡大した画像です。
出典:大正元年 神都興信所発行 宇治山田商工人名録、大正3年 実業興信所発行 宇治山田商工人名録、大正11年 三重県勧業協会発行 三重県商工案内、大正12年 東京交通社発行 大日本職業明細図 宇治山田市 鳥羽町 二見町 松阪町、昭和6年 宇治山田商工会議所発行 宇治山田商工案内、平成30年 秋田耕司著・発行 宇仁館物語、wikipedia