江戸時代に勢田川の水運を利用した問屋街として発展した「河崎」の町は伊勢の台所とも呼ばれ、大量に訪れる伊勢神宮の参拝客が宿泊する宇治や山田に物資を供給していました。戦後の高度成長期に陸上輸送が主流となり、河崎の物資集散地としての役目は衰退しましたが、現在でも町屋や蔵などの歴史的景観がたくさん残されています。
その河崎を象徴するのが「伊勢河崎商人館」で江戸時代に創業し、昭和50年代まで営業していた酒問屋「小川酒店」の建物を修復・整備した施設になります。今回は伊勢河崎商人館を目指すのですが、外宮前をスタート地点にして古い画像を交えながら、町並みをご紹介していきたいと思います。
上の画像は大正11年(1922年)5月に駸々堂旅行案内部より発行された「伊勢参宮案内地図」の山田駅(現・伊勢市駅)付近を拡大したものです。赤い実線は路面電車(宮川電気→伊勢電気鉄道→合同電気→東邦電力→神都交通→三重交通・神都線と変遷し昭和36年(1961年)1月に廃止)の軌道です。
ではスタートです。外宮の表参道を出て信号を渡った辺りの画像です。外宮参道は明治30年(1897年)の山田駅(現・伊勢市駅)開業後の明治32年に竣工しました。
信号を渡り、少し進んだ地点の画像です。右側は「いそべや食堂」さんです。
昭和34年(1959年)6月に撮影された同じ地点の画像です。路面電車が二見方面と外宮前方面に分岐する地点だったのですね。昭和36年1月に廃止されましたが、現在では路面電車を再現した神都バスが走っています。
少し進みますと左手には大正初期に創業し、昭和2年に増築された木造三階楼の「山田館」さんが堂々と建っております。以前は外宮参道沿いに沢山の木造旅館が建っていましたが、現在でも存在しているのは「山田館」さんのみです。
さらに進みますと右手には明治40年(1907年)に創業の老舗刃物店「菊一文字金近本店」から受け継がれた「伊勢 菊一」さんがあります。
昭和34年6月に撮影された菊一文字金近本店前の画像です。少し撮影の角度が違いました(^^;)。路面電車が現在でも走っていれば、人気沸騰間違いなしだと思います。
伊勢菊一さんを正面から撮影した画像です。現在は刃物以外にも様々な民芸品や万金丹、書籍なども取り扱っています。
伊勢菊一さんから20mほど伊勢市駅方面へ進みますと十字路がありますが、この横切っている路地が外宮参道が出来る前からある外宮方面から河崎方面へ向かう昔のメイン道路でありました。
拡大した「伊勢参宮地図」上でこの十字路を水色で囲ってみました。伊勢菊一さんの右横の道路は大正後期以降の開通で昭和5年までには開通していました。
十字路を右折し、昔のメイン道路へ入り少し進んだ所に小さな橋があります。この橋を「せせらぎ橋」といい、寛永年間(1624~1644年)に発行された「寛永中山田郷内惣図」、文化12年(1815年)に発行された「伊勢山田町之図」にも描かれています。橋のガードパイプと建物の間をのぞき込むと確かに小川があります。
「伊勢山田町之図」の写しのうち外宮前辺りを拡大した画像です。赤い丸で囲った所に「セセラキ」と書かれており、ここがせせらぎ橋になります。江戸時代に描かれた図ですので当然のことながら伊勢市駅や外宮参道はまだありませんので、参考までに現在のJR参宮線を青い線で書き入れてみました。
外宮神苑内から流れ出る豊川(とよかわ)が三日市大夫次郎邸跡(現在の法務局)の南で分岐し、分岐した川が山田郵便局電話分室(現在のボン・ヴィヴァン)辺りからせせらぎ橋の下を流れて伊勢市駅の敷地内辺りで清川(きよかわ)と合流していたようです。
せせらぎ橋の少し北側にもコンクリートの下を小川が流れているとわかる場所があります。現在はほとんどが暗渠(あんきょ)になっており、この先はどこを流れているのか、現在も流れているのもかわかりません。
せせらぎ橋を渡ると本町(ほんまち)から吹上(ふきあげ)に入ります。少し進むと伊勢菊一横からの道路と合流しますので左折し、150mほど進みますと吹上の交差点にでます。
吹上の交差点を直進し、100mほど進みますと吹上町のバス停があり、その先に吹上町踏切があります。昭和30年代まではほぼ一直線の所に踏切がありましたが、現在は付け替えられ宇治山田駅よりに移動しています。
次回、伊勢河崎商人館を目指して歩く②に続きます。
出典:平成28年 伊勢商工会議所・(有)伊勢文化舎発行 改訂新版 検定お伊勢さん公式テキストブック、山田館ホームページ、伊勢菊一ホームページ、wikipedia