鳥羽日和山②の続きになります。
大正7年以前に発行された絵はがき「鳥羽港日和山無線電話」の画像になります。画像中央の山が日和山の展望台(見晴台)になり、大きな大木が「海越の松」で周りには茶屋の屋根が見えます。手前の白く見える建物が無線電話局になります。
日本における電話の発祥は明治23年(1890年)でありますが、鳥羽で電話が開通したのは明治43年(1910年)でありました。電話の開通は遅かった鳥羽ですが無線電話は世界で初めて実用化されました。
大正3年(1914年)11月にTYK式無線電話鳥羽局し、同年12月から鳥羽、答志島、神島(かみしま)の間で試験が開始されました。試験運用方法は神島灯台を通過する船舶が手旗信号で船名・行き先を送り、神島灯台から無線電話で船名・行き先・通過時刻を鳥羽導灯へ送信するものでした。試験結果が良好だったため、大正5年より逓信省直轄事業に移行し実用化されました。
展望台に登る階段の右側に現在は使用されていない公衆トイレ跡の建物があり、さらに進と無線電話局の建物があった場所があります。昭和31年(1956年)に鳥羽から答志に電話線が新設されたことにより、無線電話は廃止になりました。
展望台へ登る階段の左側を少し入ったところには無線電話発祥記念碑が建っています。無線電話廃止後の昭和36年(1961年)12月5日に除幕式が行われたそうです。
記念碑の右横にある説明看板の画像です。
大正後期から昭和初期の間に撮影された絵はがき「日和山より望む燈台及び主水山」の画像です。この画像では左手前の無線電話局の横に燈台があります。画像の右側のプラットホームは参宮線の鳥羽駅になり、画像中央の小高い山が主水山(もんどやま)で現在は鳥羽国際ホテルが建っている場所になります。
鳥羽駅の奥に浮かぶ小さな嶼は縁期の松(えごのまつ)が生えている嶼で、現在ではその周りは埋め立てられて佐田浜西公園になっております。縁期の松に関してはまた改めてご紹介したいと思います。
少し角度が違いますが、現在の画像です。戸田家の建物とかぶってしまい、鳥羽国際ホテルの建物が見えにくく、木々が繁っていて鳥羽駅のホームは見えません。
見晴台への分岐あたりには橘(たちばな)氏の砦跡があります。鳥羽港は古代には泊浦(とまりのうら)と呼ばれ、泊浦御厨(みくりや)として伊勢神宮内宮の支配下に置かれ、支配していたのが橘氏でありました。橘氏は「鳥羽殿」とも呼ばれ、泊浦に出入りする船を管理(関税の徴収)をしていて、ここに居館があったとも云われます。
永禄12年(1569年)に伊勢国司・北畠具教(きたばたけ とものり)が織田信長に攻められ和睦すると、その配下となっていた九鬼氏が台頭することとなり、橘宗忠(鳥羽主水 とばもんど)は九鬼嘉隆に娘を嫁がせて降伏しました。
大正2年(1913年)二見浦保勝会発行の二見名勝誌にある「鳥羽日和山上より港内を望む」の画像です。画像の左側にある島が「相島(おじま)」で現在のミキモト真珠島になり、右奥の小高い山が鳥羽城跡になります。現在は木々に遮られていますが、日和山からは鳥羽の海が一望できたことがよくわかります。
見晴台への分岐を左に進みますと、市街地方面へ下りられます。
遊歩道を200mほど下りますと賀多神社(かたじんじゃ)の入口付近にでます。明治44年(1911年)に鳥羽駅が開業するまでは、こちらの登山道がメインだったと思われます。
出典:大正2年 二見浦保勝会発行 二見名勝誌、wikipedia
最近、水族館方面側の中腹に TOBA というモニュメントが出来て人が一杯い居るのですけど駅側(エレベーター跡)側も人が来たらいいのになと思いました