現在のJR鳥羽駅前の画像です。以前の記事でも書きましたが鳥羽停車場の開業は明治44年(1911年)7月21日で駅建設のために15,000坪余りを埋め立てて土地を確保しました。駅が出来るまではこの辺りのほとんどが海の上だったのですね。
明治44年7月15日印刷、7月21日発行の発行者・久保村憲介、著作者・曾我部一紅(市太)「鳥羽誌」に掲載されている「鳥羽停車場」の画像です。鳥羽停車場の開業日と鳥羽誌の発行日が同じなので開業に合わせて発行されたようです。
画像の中央左の小島に生えている松が今回改めてご紹介する縁期の松(えごのまつ、えんごのまつ)になります。
鳥羽誌に掲載されている「縁期松」の画像です。この縁期の松は相当古くから存在し、正徳3年(1713年)に発行された地誌「志陽略誌(しようりゃくし)」に名前の由来が記されていて、船乗り相手の遊女の客待ちの場所即ち、“男女が会う約束を交わす場所”、ということからこの名前がついたそうです。
鳥羽港は帆船時代の明治時代中期まで風待ち港として大いに賑わいました。大坂と江戸を往来する廻船(貨物船)は必ず鳥羽に寄港したそうです。その船乗り達を癒やすのが舟遊女でありました。
寛政9年(1797年)のころまでには舟遊女のことを「ハシリガネ」と称していたそうです。ハシリガネとは裁縫師兼(はりしがね、針師兼)が訛ったもので、船乗りの着物の洗濯をしたり綻びを縫ったりもしたため、この名前がついたそうです。女房の役目、芸者の役目、女郎の役目と一人三役をこなしたのですね。
鳥羽にはハシリガネが200人余りいたそうですが、明治33年(1900年)に差し止められてしまいました。
縁期の松がある場所は現在の近鉄鳥羽駅前にある鳥羽ビジターセンター裏にある佐田浜西公園内になります。ビジターセンターの建物の右奥にある松が三代目縁期の松になります。
平成27年(2015年)に植えられた三代目縁期の松です。二代目縁期の松は平成25年に松食い虫の被害により枯れてしまいました。
大正7年(1918年)以前に発行された絵はがき「鳥羽海浜」の画像です。現在のビジターセンター辺りからの撮影だと思われます。画像の奥が答志島(とうしじま)になります。
当時は縁期の松の周辺の海域は鳥羽町の指定海水浴場になっていて、夏場には画像のように賑わっていたのでしょう。
「鳥羽海浜」と同じ角度で撮影した現在の画像です。ビジターセンターの建物裏からの撮影です。
大正7年から昭和初期の間に絵図研究会内、日本名所絵葉書出版所から発行された絵はがき「停車場前縁期松ヨリ港内眺望」の画像です。画像の奥に見えるのが坂手島(さかてじま)になります。
この画像は満潮に近いときの撮影になります。
現在でも元々の岩礁が少し遺っていて、成長した自然の松が岩礁に食い込みながら生えています。
2代目・縁期の松になった絵はがき「鳥羽駅前海水場」の画像です。初代・縁期の松は昭和初期に枯れてしまい、御木本幸吉が新しい松を植え直しました。
佐田浜一帯は昭和41年(1966年)から昭和47年(1972年)にかけて埋め立てられました。子供達が泳いで遊んでいる場所は現在の国道の上になると思われます。
ちょうどこの辺りになるのではないでしょうか。
出典:明治44年 久保村憲介発行 曾我部一紅著 鳥羽誌、昭和47年 鳥羽志摩文化研究会会長 中村行幸昭発行 岩田準一著 志摩のはしりかね、wikipedia