町並みの今昔 旅館編

大橋館跡③ 多気長大夫 宇仁館別営 対泉閣 修養団

前回の大橋館跡②の続きになります。明治34年(1901年)時点の大橋館主・多気道郎(たげ みちお、御祓い名 多気長大夫、長太夫)氏は明治8年(1875年)生まれでありました。多気家の遠祖は多氣城(たげじょう 別名・霧山城 津市美杉町上多気)の村上源氏より出たので多氣を氏としたそうです。

前回もご紹介した大正4年以前に撮影された宇治橋西詰時代の大橋館

宇治に移住して数代後に神宮に奉仕し神職となったそうです。明治26年(1893年)に18歳で家を継ぎ、火災などに遭いながらも明治34年までには腹巻大夫から大橋館を引き継ぎ、神道大橋教会を組織し盛名を馳せました。このとき多気道郎氏はまだ26歳ですので相当な経営能力があったのでしょう。

宇治橋の西詰にあった大橋館は大正4年(1915年)に空域整備のため現在の「修養団 伊勢青少年研修センター」がある場所に移転しました。

東京市日本橋区若松町 銀花堂印刷の絵はがき「伊勢内宮宇治橋前 大橋館 并ニ 本館」の画像です。この絵はがきは移転後の撮影になります。

本館の辺りを拡大してみました。

sadanaiさんのホームページ「いにしえの伊勢」に筆者の所有していない大橋館全景の画像もあり、そちらも参考にしますと軒唐破風(のきからはふ)の玄関が追加されていますが、建物の形やベランダの柵などから宇治橋西詰時代の建物をそのまま移築されたものと推測されます。

現在の画像です。門は無くなっていますが坂道はそのまま遺っています。

大正後期から昭和初期の間に発行された絵はがき「伊勢内宮前 旅館大橋館」の画像です。「伊勢内宮宇治橋前 大橋館 并ニ 本館」の画像と比べますと門の位置がやや坂の上になり壁の部分が無くなっています。入口の左側の建物には大橋館出迎所と軽便食堂の看板が掲げられています。

大橋館出迎所と軽便食堂の建物のあった場所には「だるまや」さんのビルが建っています。

「伊勢内宮前 旅館大橋館」とセットの絵はがき「伊勢内宮前 旅館大橋館 座敷の一部」の画像です。特に特徴がある座敷ではないですね。

同じくセットの絵はがき「伊勢内宮前 旅館大橋館ヨリ市街遠望」の画像です。この画像は内宮宇治橋前 大橋館跡でもご紹介したものと同じになります。

その後、昭和7年(1932年)3月までには宇仁館の経営する「対泉閣」となりました。大橋館の名前は御幸道路の開通によって分断された三日市大夫次郎邸の南側を利用した宇仁館別館に引き継がれました。

戦中、戦後いつまで対泉閣が営業していたか不明なのですが、昭和23年(1948年)に宇治山田商工会議所から発行された「伊勢志摩商工大鑑」の旅館、料理、飲食の項に対泉閣の名前を見ることができません。

出典:sadanaiさん いにしえの伊勢、明治34年 三谷敏一 神都名家集、昭和23年 宇治山田商工会議所発行 伊勢志摩商工大鑑、wikipedia

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)