御師

内宮宇治橋前 大橋館跡 對泉閣 腹巻大夫 多気長太夫

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内宮宇治橋の西詰にはかつて御師系旅館の「大橋館(おおはしかん)」がありました。大橋は宇治橋のことを指し、名前の由来だと思われます。

アイキャッチ画像とほぼ同じ角度で撮影した宇治橋の外側の鳥居とその手前にある黒松の間の現在の画像です。

アイキャッチ画像は大正2年(1913年)二見浦保勝会発行の二見名勝誌にある「旅館大橋館」の広告の画像を拡大したものです。

発行年不明の「大橋館室内」の絵はがきの画像です。丸窓の中に「大橋館神主門」の画像もあります。

「大橋館神主門」を拡大した画像です。皇学館大学出版部発行の神宮御師資料内宮篇には大橋館神主の名前は無く、御師廃止後に旅館名に合わせて作られた銘だと思われます。谷口裕信「御師廃止後の龍大夫と旧配札地域」、「近代の伊勢参宮と宇治山田の旅館業」によりますと大橋館の経営者は明治27年(1894年)時点では旧御師・腹巻大夫(腹巻太夫 はらまきだゆう)、大正6年(1917年)時点では旧御師・多気長太夫(たげ ちょうだゆう)でありました。

宇治橋前の黒松の辺りから観光バスの駐車場方面を撮影した現在の画像です。この辺りに大橋館の建物が建っていました。大正4年(1915年)に宮域整備のために取り壊されて現在「修養団 伊勢青少年研修センター」がある場所に移転しました。

昭和初期に宇仁館(うにかん)から発行された絵はがきセットのうち、「宇仁館別營 對泉閣」の画像です。大正4年に移転した後、昭和になってから宇仁館の傘下に入り旅館名が「對泉閣」に変わりました。宇仁館本館以外の他の旅館は「別館」となっていますが対泉閣だけは「別營」となっております。

現在の画像です。木々が生い茂って見にくいですが對泉閣があった場所には修養団の建物があります。

大正4年に移転してから昭和初期の宇仁館傘下に入るまでに発行された「伊勢内宮前 旅館大橋館ヨリ市街遠望」の絵はがきの画像です。路面電車が止まっている場所は現在の内宮前バス乗り場になります。

昭和4年(1929年)3月5日に山中書店から発行された伊勢参宮地図にある大橋館の広告の画像です。昭和4年時点ではまだ「大橋館」の名称のままでありました。

昭和7年(1932年)3月24日に発行された伊勢朝報にある宇治橋公園の案内図の画像です。この図には「大橋館」ではなく「對泉閣」と記載されていますので昭和4年3月から昭和7年3月くらいの間に大橋館は宇仁館グループの傘下に入ったと思われます。

出典:大正2年 二見浦保勝会発行 二見名勝誌、昭和55年 皇学館大学出版部発行 神宮御師資料内宮篇、平成25年 谷口裕信 近代の伊勢参宮と宇治山田の旅館業、谷口裕信 御師廃止後の龍大夫と旧配札地域、昭和4年 山中書店発行伊勢参宮地図、昭和61年 国書刊行会発行 ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 伊勢二見小俣

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