御師

御師 沢瀉大夫邸跡② 神苑整備 角甚 宇治橋

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2024年5月4日に撮影した内宮宇治橋前の画像です。今回は以前にご紹介した御師 沢瀉大夫を新たな画像などを交えて改めてご紹介します。

画像上が東

文久元年(1861年)に作製された「宇治郷之図」の宇治橋付近を拡大した画像です。

現在では宇治橋の東詰から火除け橋までは神苑として整備され、西詰の正面辺りはロータリー、南側は駐車場として整備されていますが、この時代は宇治橋の東側、西側ともに御師邸など民家がたくさんあり、西詰の南に沢瀉大夫(おもだかたゆう)邸はありました。

明治22年(1889年)の神苑整備に伴い、宇治橋の東側の民家はすべて立退きました。神苑整備の目的は宮域の風致の向上(神宮尊厳の保持)や火災の延焼防止ためでありました。

明治38年(1905年)11月に博文館から発行された「伊勢行幸写真帖」に掲載されている「内宮神苑外の宇治橋」の画像です。宇治橋網受け②でもご紹介した絵はがき「伊勢宇治橋」と元は同じ画像になります。

宇治橋手前の右側(現在の衛士見張所の辺り)に「角甚(かどじん)」の建物が写っていて、その奥には網受けの姿も見えます。網受けは明治37年1月に禁止(出典:いにしえの伊勢 宇治橋公園)されているので撮影はそれ以前となり、宇治橋の左側に火の見櫓がありますので、さらにもう少し前の時期と思われます。

同じく「伊勢行幸写真帖」に掲載されている「宇治山田町斎主宮の御旅館」の画像です。

明治38年11月の明治天皇による伊勢行幸の斎主である賀陽宮(かやのみや)殿下の宿泊する旅館が沢瀉大夫邸でありました。

明治40年3月以前に発行された絵はがき「伊勢宇治橋」の画像です。

宇治橋の手前の右側に角甚の建物が見え、その手前の電灯の下に沢瀉大夫の看板があります。沢瀉大夫邸は宇治橋より奥まった所にあったので角甚の横に門か何かがあり、分かりやすいように大きな看板が掲げられていたのでしょう。

この画像には火の見櫓が無く、網受けも居ないように見えます。

明治42年(1909年)10月17日のスタンプ印のある絵はがき「内宮宇治橋渡初式之実景」の画像です。実際の渡始式(わたりはじめしき)は明治42年3月26日に執り行われました(出典:明治四十二年式年遷宮史 111p)。

この画像には角甚は写っていないので、それまでに立ち退いていたということになります。御幸道路(みゆきどうろ)建設にあたり、現在の宇治橋前の大松の辺りに御鎮座していた饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)が明治42年3月20日に現在の位置付近に移転していますので、このときに角甚も立ち退いたのではないでしょうか。

明治末期から大正初期ころに発行された絵はがき「伊勢宇治橋ト旅館沢瀉大夫」の画像です。この画像も角甚が立ち退いた後で、その場所にまだ大橋館はまだありません。

絵はがき「伊勢宇治橋ト旅館沢瀉大夫」と同じセットだったと思われる「伊勢内宮旅館沢瀉大夫ヨリ五十鈴川ヲ望ム」の画像です。五十鈴川ヲ望ム旅館沢瀉大夫のほうが適切な説明文になりますね。

かつて沢瀉大夫のあった五十鈴川の河畔は現在では樹木が生い茂っています。

大正2年(1913年)7月に二見浦保勝会から発行された「二見名勝誌」に掲載されている「旅館 大橋館」の広告にある画像です。明治42年の式年遷宮あたりのときは更地だった角甚の跡地に大正2年ころまでには大橋館が建設されていました。

その後、大正天皇の御大典(御大礼)の事業として神苑の宇治橋の外側への拡張整備が行われ、大正4年(1915年)に沢瀉大夫邸、大橋館をはじめ四十数戸が立ち退きとなりました。

宇治橋前から角甚、大橋館、沢瀉大夫があった方角を撮影した現在の画像です。

出典:sadanai氏ホームページ いにしえの伊勢 宇治橋公園、明治38年 博文館発行 伊勢行幸写真帖、明治43年 川原由松発行 明治四十二年 式年遷宮史、大正2年 見浦保勝会発行 二見名勝誌、平成9年 伊勢文化会議所発行 宇治郷之図、2021年 土木学会 景観・デザイン研究講演集No.17 濱田美知留・林倫子 戦前の宇治山田市における内宮神苑設計思想の変遷

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