上の画像は寛永中山田郷内惣図の写しの写しの外宮前付近を拡大したものです。寛永は1624年から1645年になり、3代将軍・徳川家光の時代になります。
この図は外宮を上(南が上)に描かれていますが、当時は外宮を図の下に持ってくるのは恐れ多いという考えがあったと思われます。
岩渕と書かれた道路が現在の市役所裏の道路になります。現在の伊勢市役所、伊勢税務署の辺りに三日市兵部邸、三日市大夫次郎邸がありました。その右隣りに久保倉助之丞邸、久保倉右近邸があります。
今回は久保倉右近こと御祓い銘・久保倉大夫邸がどこにあったのかを探ってみたいと思います。
江戸時代に描かれた久保倉大夫邸図の境界線を赤線で表し、Google Earthをお借りして山田駅前(現在の伊勢市駅前)航空写真①に続きまして下手な合成をしてみました(^^;)。
南側4分の1くらいのところを御幸道路が貫通していますが、邸地の輪郭はほぼそのまま遺されていますね。
邸地は三角形のようになっていますが、南西側の境界線はかつての豊川(とよかわ)の分流でありました。
外宮の宮域内にご鎮座する茜社(あこねやしろ、あこねさん)・豊川茜稲荷神社の入口の画像です。標柱の左側に橋の欄干が見えますが、この橋を「須崎橋」といいこの下を豊川が流れています。
御木本道路の下を潜った反対側の豊川の画像です。現在は突き当たって右側にしか流れがありませんが、かつては二俣に分かれ左側に分流が流れていました。突き当たりの先が三日市大夫次郎邸跡になります。
かつての久保倉大夫邸の南端辺りになり、境界線であるブロック塀辺りを豊川の分流が流れていました。
現在の伊勢市民活動センター(パルティいせ、いせシティプラザ)もかつての久保倉大夫大夫邸跡にあります。
現在の伊勢外宮前郵便局辺りまでが、久保倉大夫邸跡になります。
かつての久保倉大夫邸の敷地跡にある大正12年(1923年)竣工の旧山田郵便局電話分室の建物の画像になります。国の有形登録文化財に指定されていて現在は北側がフランス料理「ボンヴィヴァン」さん、南側が「ダンデライオンチョコレート」さんとして利用されています。
外宮前郵便局の裏側から豚捨外宮前店さんを撮影した現在の画像です。豚捨さんといそべや食堂さんの間に溝があり、これが豊川分流の名残だと思われます。
画像の目の前辺りにかつては「下馬所橋(げばしょはし)」が架かっていました。正徳(しょうとく、1711年~1716年)年中の記録によりますと本橋の長さが7.2m余りで幅が2.1m余り、服喪中の人や妊娠中の婦人が渡る假屋橋(かりやはし)の長さが6.3mで幅が1.8m余りあったそうですので、当時は結構な川幅があったと思われます。
合成画像に豊川の本流と分流跡を水色で着色し、撮影場所を番号で表してみました。
下馬所橋は明治30年(1897年)に山田駅(現在の伊勢市駅)が開業し、山田駅と外宮前間の新道(現在の外宮参道)造成のときに撤去されたそうですので、このときに豊川分流もほとんどを埋め立てられてしまったと思われます。
豊川分流は下馬所橋からせせらぎ橋へと流れ、世木神社横辺りから伊勢市駅構内、伊勢市駅北側辺りで清川と合流していたと思われます。
三重県神社庁教化委員会のホームページの世木神社の項には、豊川分流の上流と下流に堰(せき)を設け「関川」と称していたとあります。そこへ外宮祠官(しかん)・度会神主(わたらいかんぬし)の一族が移住して、家号を世木と号し、下流の堰辺りに祖神を奉祀して世木社(現在の世木神社)と称したものと考えられるそうです。
伊勢市役所観光課に確認したところ、現在、市役所裏通り沿いの北側に久保倉右近邸跡の石標が建っておりますが、本来の位置に石標が建てることができず、やむを得ず道路の反対側に建てられているとのことです。
出典:2019年3月19日 西日本電信電話会社 ニュースリリース(三重支店)、三重県神社庁教化委員会ホームページ、昭和59年 伊勢文化会議所発行 山田惣絵図、平成14年 土浦市立博物館発行 祈る・集う・巡るー信仰と旅の民族誌、wikipedia