江戸時代に神宮と日本全国の庶民を結ぶ架け橋となった御師(おんし)の中でも最大規模を誇った三日市大夫次郎(みっかいちだゆうじろう)をご紹介します。現在の伊勢税務署と伊勢市役所西側の駐車場から御幸道路を挟んで法務局の辺りにまで敷地があり、その面積は1800坪もあり一日に100人近くの人々を宿泊させることができたそうです。
伊勢税務署です。
御幸道路を道路を挟み、反対側にある法務局です。
御幸道路は明治40年(1907年)6月に用地買収を開始し、同年9月に着工しました。この着工に伴い三日市大夫次郎邸は南北に分断されました。御幸道路の完成は明治43年(1910年)3月でありました。
御幸道路と反対側の裏通りに面した、税務署敷地内にある石標です。ひっそりと立っておりますので、少し分かりにくいです。
石標と同じく裏通りに面して、市役所建物(画像左側)と税務署建物(画像右側)との間に当時のものと思われる土塀が残されております。
土塀の左側にある説明看板です。非常に分かりやすい説明文です。
近くから撮影した画像です。説明看板にもあるように御師・三日市兵部(ひょうぶ)邸跡のものと推測されています。三日市兵部邸は三日市大夫次郎邸の東隣りにあり、分家であると思われます。
明治45年(1912年7月30日まで)改正 「御師講社(おんしこうしゃ)」 三日市大夫次郎がありますのでご紹介します。明治4年に御師職が廃絶された以降も旅館業を続け、諸街道の信用ある旅館と提携する「御師講社」を設立し、神宮参拝客を受け入れていました。
表紙に青いスタンプ印のある東京・上野の「福仙旅館」から始まり、奈良・大阪・京都までの旅館が記載されております。「御師講社」につきましては、詳しく調べられましたら、またご紹介したいと思います。
御幸道路の開通により南北に分断された後、北側(税務署側)は三日市旅館となり、南側(法務局側)は本家三日市大夫次郎となりました。明治45年(1912年)7月にはいずれも宇仁館・西田氏の経営するところとなり、昭和初期には北側は宇仁館別館・三日市旅館と改称、南側は宇仁館別館・大橋館と改称して営業を続けました。
次回、三日市大夫次郎邸跡②に続きます。
出典:大正元年 神都興信所 宇治山田商工人名録 明治45年7月1日現在、伊勢市立伊勢古市参宮街道資料館ホームページ、昭和61年8月、国書刊行会発行 ふるさとの思い出 写真集 明治大正昭和 伊勢二見小俣、wikipedia