御師

伊勢暦 丹生暦 神宮暦 暦師 瀬川舎人 飛鳥帯刀

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伊勢暦(いせこよみ)とは江戸時代に神宮の御師(おんし)が毎年全国各地に配布した御祓大麻(おはらいたいま)に添えて配った暦でありました。伊勢暦は他の暦に比べて正確であり、農事の便も考慮して記載されていたため、お土産物として大変喜ばれたそうです。

はじめ配られる暦は京都の経師暦(きょうしこよみ)や丹生暦(にゅうこよみ)が用いられていましたが、伊勢の御師が全国に配る暦の数が膨大であったため、自然の流れで寛永9年(1632年)に伊勢暦が生まれたそうです。丹生暦とは伊勢国飯高郡丹生村(いいたかぐん にゅうむら、現在の三重県多気郡多気町丹生)の賀茂杉太夫(かも すぎだゆう)が伊勢国司北畠氏の庇護のもとに発行した暦で、享禄5年(1532年)にはすでに存在していた記録があるそうです。

文久3年(1863年)と元治2年(1865年)の伊勢暦の表紙の画像です。大きさは縦26cm、横8cmくらいで各暦の大きさには多少のバラツキがあります。

文久3年の伊勢暦の表紙を一枚捲りますと、まず暦師(れきし)の名前が記載されております。暦師は宇治(内宮)に1軒で山田(外宮)には時期にもよりますが14軒から20軒ありました。宇治の暦師は佐藤伊織(さとう いおり)であり、山田の暦師は画像の瀬川舎人(せがわ とねり)をはじめ飛鳥帯刀(あすか たてわき)・中北外記(なかぎた げき)・西嶋左門(にしじま さもん)・箕曲主水(みのわ もんど)などがいました。

同じく文久3年の伊勢暦の一部の画像です。365日の暦が細かく書かれており、全部で16ページに及びます。

慶応2年(1866年)から慶応4年(1868年)の伊勢暦の表紙の画像です。

明治2年(1869年)の伊勢暦の最終ページの画像です。弘暦者(暦師)は飛鳥帯刀となっております。

明治5年(1872年)の暦の1ページ目です。発行が大学星学局となっており「文部省天文局」の朱印が押されております。明治4年に御師制度が廃止され、伊勢暦の頒布も中止されました。翌明治5年に文部省主導の下で全国の暦師が集められて頒暦商社(はんれきしょうしゃ)が組織され、明治7年からは日本政府が発行する官暦の独占頒布権を認められました。明治16年(1883年)からは神宮司庁が発行することとなり、迷信的記述を排除した「神宮暦(じんぐうれき)」として暦の刊行が行われることとなりました。

こちらが現在、神宮司庁が発行しています神宮大暦になります。伊勢暦の伝統を受け継ぎ、科学的で実用的な暦として農林漁業関係者をはじめ幅広く活用されております。

出典:伊勢商工会議所発行 検定お伊勢さん公式テキストブック、国立国会図書館ホームページ 日本の暦、コトバンク、wikipedia

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