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寛文2年(1662年)ころに制作されたとされる「山田惣絵図(やまだそうえず)」の画像です。外宮が図の上にありますので南が上になります。
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山田惣絵図の外宮前を拡大した画像です。画像の中心辺りに「山田大路美作(ようだおおじ みまさか)」邸があり、今回はこの通称・山田大路美作、御祓銘・御炊大夫(みかしき たゆう/だゆう)をご紹介します。
御炊大夫は外宮前の下馬所町(げばしょちょう ⇒明治10年より豊川町⇒現在の本町)に屋敷を構え、外宮高宮(多賀宮)物忌職(ものいみしょく)を勤め、三方家という格式の御師で現在の鹿児島県、宮崎県、岡山県、鳥取県、和歌山県、長野県などを檀那場にしていました。
安永6年(1777年)の「安永六年外宮師職諸国旦方家数改覚」に「三方家 山田大路数馬 御祓銘 御炊大夫 松平薩摩守殿 松平肥後守殿 嶋津但馬守殿 伊東大和守殿 諏訪安芸守殿 土方近江守殿 山名靱負殿 島津式部殿 一薩摩國一円 一大隅國一円 一日向國壱萬八千 一美作壱萬三千 一備前三千六百 一備中九千七十 一備後四千六十 一伯耆四千弐百 一因幡六千 一但馬千百 一紀伊七千六百 一信濃九千 一越中千五百 外略 〆八萬弐拾八軒 外二薩摩 大隅」とあります。
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松平薩摩守(まつだいら さつまのかみ)は薩摩藩第8代藩主・島津重豪(しげひで)のことを、嶋津但馬守(しまづ たじまのかみ)は日向佐土原藩(さどわらはん)第8代藩主・島津久柄(ひさとも)、伊東大和守(いとう やまとのかみ)は日向飫肥藩(おびはん)第9代藩主・伊東祐福(すけよし)、諏訪安芸守(すわ あきのかみ)は信濃諏訪藩第6代藩主・諏訪忠厚(ただあつ)、土方近江守(ひじかた おうみのかみ)は伊勢菰野藩(こものはん)第7代藩主・土方雄年(かつなが)、山名靱負(やまな ゆきえ)は但馬国の村岡領主・山名義徳(よしのり)のことと思われ、藩主も多数檀家にしていたのですね。
安永6年時点の檀家数は多い順に三日市大夫次郎の35万3090軒、久保倉大夫の25万9103軒、福島御塩焼大夫の18万5172軒、龍大夫の16万2779軒、三日市大夫治郎(通称・三日市少進)の13万7560軒、橋村肥前大夫の11万4021軒であり、御炊大夫は8万28軒の他に薩摩国と大隅国一円の檀家でありました。明治4年(1871年)の御師制度廃止直前の御炊大夫・通称山田大路篤丸の配札高は12万6761体でありました。
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月夜見宮の変遷でもご紹介した、大正8年(1919年)から10年ころに撮影、発行された絵はがき「山田驛附近空中寫眞」の画像です。当時の町並みがよくわかる貴重な画像ですね。
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「山田驛附近空中寫眞」の外宮前辺りを拡大した画像です。画像の中心にある広い運動場のあるところが元御炊大夫邸で撮影当時は宇治山田市立高等小学校となっていました。
山田大路家は御師廃止後は神楽(祈祷)はせずに、しばらくは宿として営業していたようですが、明治12年(1879年)6月に御扶助金拝戴とありますのでこのときに宿としても廃業したのではないかと思われます。明治6年(1873年)12月から明治7年3月にかけては小学校教員講習所(山田師範学校の前身)が一時的に山田大路家に開設されていました。
明治16年(1883年)5月に山田大路家の宅地跡に宇治山田公立中学校と暢発学校(上等小学校)の新校舎が完成しました。その後、明治19年(1886年)に度会郡立高等小学校、明治35年(1902年)に宇治山田町立男子高等小学校、明治42年(1909年)に宇治山田市立高等小学校になり、大正10年(1921年)に廃校となりました。
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大正7年から9年ころに発行された8枚組の絵はがきセットのうち「宇治山田市高等小学校一年女生ダンス」の画像です。校舎の奥に朝熊山が写っていますので、「山田驛附近空中寫眞」の校舎の位置、方角も一致しています。画像の左側には瓦が崩れかけた土塀が写っていますが、御炊大夫時代の遺構ではないかと思われます。
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御炊大夫邸跡は伊勢市駅前の大通り沿いにある高級生食パン専門店「乃が美」さん横にある路地の左側辺りが御炊大夫邸跡になり、その後高等小学校の校舎が建っていたと思われます。
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路地を入ったところの画像です。画像の奥のほうが運動場跡になります。宇治山田市立高等小学校の廃校後の詳しい経緯はわかりませんが、現在では一般住宅と駐車場が混在しております。
出典:昭和4年 宇治山田市役所発行 宇治山田市史 下巻、昭和60年 皇學館大學出版部発行 神宮御師資料外宮篇三、昭和61年 皇學館大學出版部発行 神宮御師資料外宮篇四、昭和59年 伊勢文化会議所発行 山田惣図絵、wikipedia