神宮の今昔

月夜見宮の変遷② 茶人 杉木普斎邸跡 宗旦四天王 宇治山田空襲 

前回の月夜見宮の変遷①の続きになります。今回は古い空中写真を中心に月夜見宮周辺の変遷とその辺りに邸宅のあった茶人・杉木普斎をご紹介します。

山田駅前(現在の伊勢市駅前)航空写真①でもご紹介した大正7年(1918年)から大正8年(1919年)ころに撮影された絵はがき「空中ヨリ見タル宇治山田市」の画像です。右下に写っているの社叢(しゃそう)が月夜見宮になります。

「空中ヨリ見タル宇治山田市」の 月夜見宮付近を拡大した画像です。画像をよく見ますと月夜見宮の入口と上側(南側)の宇治山田市第七尋常小学校(現在の厚生小学校、以後厚生小学校と表記します)との間には民家が建ち並んでいます。現在では月夜見宮の入口前の道路は拡張されていて厚生小学校との間に民家は無いのでビックリですね。

画像上側が南

大正9年(1919年)から大正12年(1922年)ころに撮影された絵はがき「山田駅付近空中写真」の画像です。 山田駅(現在の伊勢市駅)前の宇仁館が3階楼になっており、山田駅東側(画像の右側)に大正12年3月着工、翌年3月完成の現在でもある八間道路(県道201号線)が無いことなどから撮影時期を推測しました。

「山田駅付近空中写真」の 月夜見宮付近を拡大した画像です。やはり、この画像でも月夜見宮と厚生小学校との間に民家が建ち並んでいます。

昭和27年に産業振興会から発行された「宇治山田市街図」の月夜見宮付近を拡大した画像です。

「空中ヨリ見タル宇治山田市」、 「山田駅付近空中写真」 と比較しやすいように南北を逆にしてみました。戦前は外宮を画像の下側に持ってくるのは恐れ多いということで、写真や地図は外宮が上になるように南を上にしたそうです。

昭和20年7月29日の宇治山田空襲で山田駅(現在の伊勢市駅)から西側の市街地には一万数千発の焼夷弾がアメリカ軍により投下され、被害は市街地面積の5割に及び、全戸数の3割が焼失しました。このときに月夜見宮周辺の住宅が全て焼失し、厚生小学校(被災当時は厚生国民学校)も焼失しました。焼失した地域(特に月夜見宮の西側地域)は道路を拡張、区画整理されて復興し「宇治山田市街図」 の状態になったと思われます。

国土地理院「地理院タイル」の1961年から1969年の間に撮影された月夜見宮付近の画像です。現在の状態に随分近づいてきました。

現在、厚生小学校の敷地の北西角付近に茶人・杉木普斎邸跡の石標と案内看板が建っております。

案内看板の画像です。杉木普斎(1628年~1706年)は江戸前期の茶人で名は光敬(みつのり)で普斎は号でありました。千利休の孫・千宗旦(せんのそうたん)四天王の一人でありました。外宮の御師(おんし)・杉木家のうち、杉木宗大夫・末吉の娘・美津が普斎の生母であり、普斎は杉木吉大夫と称していました。

「山田駅付近空中写真」 の月夜見宮付近をさらに拡大した画像です。杉木普斎邸は厚生小学校と月夜見宮の間にあったそうで、水色の円の辺りのどこかにあったと思われます。

昭和40年(1965年)ころに撮影された月夜見宮前の画像です。

現在の月夜見宮前の画像で右側に写っているのが厚生小学校の校舎です。この辺りのどこかに杉木普斎邸があったのですね。

普斎の自画像です。寛文9年(1669年)には当時の鳥羽城主・内藤忠重が遷宮警護で山田を訪れた際に、「世に名高き茶人」である普斎に是非にと一服を所望したそうです。

出典:三重県環境生活部文化振興課 発見!三重の歴史、国土地理院 地理院タイル、 昭和27年 産業振興会発行 宇治山田市街図、 昭和41年 淡交新社発行 杉木普斎、wikipedia

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