神宮の今昔

宇治橋 網受け② 五十鈴川 鳥屋尾左京 伊勢参宮案内記

以前に内宮宇治橋 網受けでご紹介した大正2年(1913年)岡田商店発行の「両宮案内」にある網受けの画像です。網受けとは内宮への参拝客が宇治橋の上から五十鈴川にする投げ銭を網で拾う人のことを言います。

今回は網受けの新たな画像を追加しつつ、起源や経緯などをご紹介します。

明治22年(1889年)12月に岸本栄七から発行された「伊勢参宮 道中獨案内(どうちゅうひとりあんない)」の表紙の画像です。この書籍は京都、大坂から伊勢神宮までの各地の名所、名物、旅館などを紹介したものになります。

伊勢参宮 道中獨案内にある宇治橋の項の画像です。挿絵の宇治橋の下には網を持った子供が描かれています。

網受けの起源は一説によりますと、織田信長の没落後、その家臣であった鳥屋尾左京亮(とやのお さきょうのすけ)が浪人となりこの地に流れ住み、渡世(とせい)のために毎日宇治橋の下に出て、竹竿に編み笠を付けて参宮人に銭を投げさせました。鳥屋尾左京亮は槍の名手だったので、投げられた銭を一銭も受け損じること無く喝采を博したのが網受けのはじまりだとされています。

明治33年(1900年)5月に伊勢新聞社から発行された「神都名勝真景」にある「宇治橋」の画像です。

明治初期でも投げ銭は盛んで、宇治橋の袂には両替屋が4,5軒あったそうです。そのころ神宮には鶏も多くいて両替屋は鶏のエサ用の米をカワラケ(素焼きの土器)に盛ったものと投げ銭用の穴あき銭を串に通したものを台の上に並べて老婆が客待ちをしていたそうです。

その後、網受けは神域に相応しくないということで禁止されましたが(御師制度廃止の明治4年頃か?)、懐かしむ声により明治18年(1885年)に復活しました。

明治35年(1902年)に博文堂から発行された「文芸倶楽部定期増刊 名古屋と伊勢」にある「宇治橋と橋下の銭掬い」の画像です。

網受けの復活後は銭の代わりに五色に塗られた木製の玉を宇治橋の西詰ある店で買い求めて、それを橋の上から投げたそうです。

おかげ犬でもご紹介した、絵はがき「伊勢宇治橋」の画像です。橋の右側には網受けがいます。

「伊勢宇治橋」の左下を拡大した画像です。鳥居の手前左側には傘を立て、台の上で何かを売っている店が並んでいます。この店で木製の玉を売っていたものと推測されます。

明治39年(1906年)11月に交益社から発行された坂本廣太郎著「伊勢参宮案内記」の宇治橋の項には「橋詰で、参詣人が神鶏に蒔いてやる精米や、網受の投銭を鬻(ひさ)ぎ、両換する爺(じい)や嫗(ばば)の小店がある」とあり、「伊勢宇治橋」に写っている店がその小店だと思われます。

「伊勢参宮案内記」の網受けの項には「御家御繁昌の呼聲(よびごえ)が山に響き谷に渡って春の騒々しさは又格別であった。が、これも昨年から禁制されたので、騒々しい濁聲(だみごえ)も聞こえなくなった。」とあります。明治38年に網受けは禁止され現在に至ります。

出典:明治22年 岸本栄七発行 伊勢参宮 道中獨案内、明治33年 伊勢新聞社発行 神都名勝真景、明治35年 博文堂発行 文芸倶楽部定期増刊 名古屋と伊勢、明治39年 交益社発行坂本廣太郎著 伊勢参宮案内記、昭和51年 三重県郷土資料刊行会発行 野村可通著 伊勢の古市あれこれ、wikipedia

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