内宮へ参拝するときに必ず通る宇治橋は五十鈴川に架かり、長さ101.8m、幅8.42mの木造の和橋(わきょう、日本風の橋)で別名を御裳濯橋(みもすそばし)と言います。江戸時代にはこの宇治橋の上から参拝者が「投げ銭(賽銭を川に投げ入れる)」をし、川の中で網を持った人々が「投げ銭」を受け取る「網受け(あみうけ)」と呼ばれる風習がありました。
本来のお伊勢参りは「禊ぎ」をするために五十鈴川に入り、水を浴びることにより不浄なもの一切を川水に流してしまう「水垢離(みずごり)」を行いました。しかしながら参拝者全員が「水垢離」を行うことも無理なので、宇治橋の上から「投げ銭」してもらい、代わりに五十鈴川で「水垢離」をする人々が現れました。代理で「水垢離」をするので「代垢離(だいごり)」と呼び、「代垢離」をする人々は長い竹竿の先に大きな網を付け「投げ銭」を受け止めました。
大正2年(1913年)岡田商店発行の「両宮案内」にある網受けの画像です。木除杭(きよけぐい)があるので宇治橋の上流側になり、網受けの人々は背丈から直径1m以上はあると思われる網を持っています。 網受けする人々は中々巧みで一文も受け損なうことがなかったそうです。
画像奥右側にある建物が旧御師旅館・大橋館で左側にある建物群が旧御師旅館・沢瀉大夫であります。いずれの旅館も神苑整備のため大正4年(1915年)に立ち退きとなりました。
現在の様子です。川底は整備され石畳になっており、西岸は樹木で覆われております。
明治中期に発行されたと思われる神苑側から西岸を撮影した絵はがきの画像です。この絵はがきは手色彩で着色されておりますが、当時の網は赤や青など5色の糸網を張ったそうで、投銭を受ける者の「御家御繁昌(おいえ、ごはんじょう)」という呼び声が響き渡っていたそうです。
画像奥に見える建物は大正4年まで存在した旧御師「中川采女大夫(なかがわ うねめだゆう)」邸だと思われます。
現在の様子です。
明治40年(1907年)参宮鉄道株式会社運輸係発行の「参宮案内」にある「宇治橋」の画像です。画像奥が神苑で五十鈴川の河原で網受けをする人々が写っております。
西岸には木々が生い茂っているため橋上から撮影した画像です。
「網受け」は明治になり一時廃止になりましたが、明治18年(1885年)から20年間ほどは復活しこの光景は見られました。この時期は「投げ銭」では無く、参拝者は宇治橋の西詰で売られていた彩色された木製の玉を購入し、それを橋の上から投げ入れたそうです。
出典:大正2年 岡田商店発行 両宮案内、明治40年 参宮鉄道株式会社運輸係発行 参宮案内、明治39年 交益社発行 伊勢参宮案内記、昭和61年 国書刊行会発行 ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 伊勢二見小俣、wikipedia