御師

御師 沢瀉大夫 宇治橋上岸

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沢瀉大夫(おもだかたゆう、だゆう)は、もと内宮の御師であり、別宮・風日祈宮(かざひのみのみや)の内人(うちんど)を兼ねており、武蔵国の足立郡・横見郡・比企郡、下総国の葛飾郡・猿島郡・岡田郡、上総国の望陀郡・夷隅郡・市原郡など関東を中心に伊賀国、大和国などに檀家を持ち、お祓札26、500余体を配布していました。明治4年(1871年)に御師制度が廃止されてからも沢瀉大夫の名で旅館業を続けていました。

この絵図は、明治30年2月、古川小三郎発行の「伊勢参宮案内」に掲載されているものです。宇治橋の北東側から南西側(現在の宇治橋衛士見張所・観光バス駐車場側)を見た構図です。

現在の宇治橋上から南西側を撮影した画像です。

大正2年(1913年)岡田商店発行の両宮案内にある宇治橋の「網受け」の画像です。木除杭(きよけぐい)が見えるので五十鈴川の上流側の画像になり、奥に見える建物群が沢瀉大夫邸になります。(11月28日画像追加)

大正2年(1913年)二見浦保勝会発行の「二見名勝誌」にある沢瀉大夫の広告の画像です。五十鈴川を挟んで内宮神苑側から撮影したものです。(11月28日画像追加)

宇治橋の外側の鳥居横から撮影した画像です。衛士見張所から黒松の奥にかけて大橋館があり、さらにその奥に沢瀉大夫邸がありました。

大正2年(1913年)二見浦保勝会発行の二見名勝誌にある「旅館大橋館」の広告の画像です。

観光バスが止まっている辺り一帯が沢瀉大夫邸跡地になります。大正4年(1915年)に宇治橋前を整備するために民家・旅館等、四十余戸を撤去したそうですので、このときに旅館沢瀉大夫は廃業し、建物は取り壊されたと思われます。

大橋館は大正4年に現在「修養団 伊勢青少年研修センター」のある場所に移転し営業を続け、昭和初期には宇仁館の傘下となり對泉閣(たいせんかく)に名称を変更しました。

「伊勢参宮案内」の宇治橋の項の旅館に関する説明文です。

「伊勢参宮案内」の広告欄です。

出典:明治30年2月古川小三郎発行「伊勢参宮案内」、昭和61年国書刊行会発行 ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 伊勢二見小俣、大正2年 二見浦保勝会発行 二見名勝誌、大正2年 岡田商店発行 両宮案内、昭和55年 皇学館大学出版部発行 神宮御師資料内宮篇

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