神宮の今昔

戦前の外宮神苑 日清・日露戦役記念 戦艦ニコライ1世大錨 清盛楠

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以前「戦前の内宮神苑」の記事にて、戦前には内宮神苑に日清・日露戦役記念の大砲や砲塔が展示されていたことをご紹介しましたが、外宮神苑にも同様に戦利品が展示されていました。

外宮表参道入口

アイキャッチ画像は大正2年(1913年)に岡田商店から発行された「両宮案内」にある「外宮神苑大錨(おおいかり)」になります。この錨はロシア帝国海軍の戦艦インペラートル・ニコライ1世のものでした。戦艦ニコライ1世は明治38年(1905年)5月に大日本帝国海軍へ降伏し、その後に日露戦役記念として錨が海軍省から神宮に献納されました。

松本写真館発行の「外宮神苑御手植松及大錨」の絵はがきの画像になります。右奥が御幸道路になり路面電車の車両も写っています。

上の絵はがきと同じ角度で撮影した現在の画像です。大錨が展示されていた場所は表参道入口を入って右側にある喫煙所の辺りになります。

「両宮案内」にある「外宮々域図」の画像です。赤い丸のところが錨があった場所になります。

明治30年(1897年)古川小三郎・三松堂松邑孫吉発行の「伊勢参宮案内」にある「外宮ノ大砲」の画像になります。この砲は大山大将から献納された日清戦役記念砲で劉公島東南砲台に設置されていたクルップ式9珊米突(9センチメートル)砲になりますが、画像が粗く判りにくいですね。柵の先はホッキス三角剣だったそうです。「外宮々域図」では緑色の丸の場所になります。

当時の画像はありませんが、紫の丸の場所には野津大将から献納されたクルップ式6珊米突(6センチメートル)砲が展示されていました。手元にある資料には外宮神苑の錨や大砲のその後の経緯は見つかりませんが、内宮神苑の戦利品と同じく敗戦後間もなく撤去されたと思われます。

明治40年(1907年)西井房吉発行の「伊勢名所写真帖」にある「外宮神苑之景」の画像になります。中央に写っている橋は「伊勢参宮案内」では「一鳥居橋(いちのとりいばし)」、「両宮案内」では「一鳥居口御橋(いちのとりいぐちおはし)」と紹介されており、現在の火除橋(ひよけばし)に当たります。一鳥居橋の奥に「清盛楠(きよもりぐす)」が見えますので、現在の火除橋は当時より15mほど左側に移動しています。

現在の表参道の火除橋です。橋を渡り15mほど右側に清盛楠があります。

推定樹齢1000年以上とされる清盛楠です。平清盛(1118年~1181年)が勅使として参向した際に冠に触れた西側の枝を切らせたという伝承がこの名の由来とされています。

清盛楠を近くから撮影した画像です。中心部が腐朽(ふきゅう)して2本に分かれ、そのまま成長し現在の姿になったそうです。

「外宮神苑の景」の「清盛楠」を拡大した画像になります。枝を受ける支柱が見えますので明治40年以前から2本に分かれていたと思われます。

出典:明治30年 古川小三郎・三松堂松邑孫吉発行 伊勢参宮案内、明治40年 西井房吉発行 伊勢名所写真帖、大正2年 岡田商店発行 両宮案内、昭和4年 宇治山田市役所発行 宇治山田市史上巻

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