御師

御師 杉木権太夫(権大夫) 伊勢御師講社

明治4年(1871年)に御師(おんし)制度が廃止された後も元御師と檀家の関係は続きましたが、徐々にその関係が薄れていきました。そこで元御師達が、参宮者の便宜を図るために、諸街道の信用ある旅館と提携して旅行の組合「御師講社(おんしこうしゃ)」を設立しました。上の画像は外宮側の御師・杉木權太夫(すぎき ごんだゆう)が発行した御師講社(宿の一覧表)の表紙です。杉木權太夫の朱印が押されており、大きさは縦15.6cm、横11.2cmです。

表紙を捲りますと、伊勢太夫 御師講社 定宿目印 廣告とあります。

1ページ目には外宮や宮川の挿絵とともに「一之木町 杉木太夫」とあります。皇学館大学出版部発行の「神宮御師資料 外宮篇一」によりますと明治3年(1870年)時点で杉木太夫の配札ノ國・神楽料・止宿料がいずれも無となっていますので、杉木權太夫が便宜上「杉木太夫」を使用していたのでしょうか?

杉木權太夫は同資料によりますと武蔵国・入間郡67村、横見郡38村、高麗郡8村、相模国・足柄下郡5村、大住郡10村、高座郡31村、上総国(現在の埼玉県・神奈川県・千葉県)を中心に配札が71,798体あったそうです。

2ページは内宮や宇治橋、朝熊山、二見の挿絵となっております。

3ページには阿さま岳(朝熊岳)、二見、神社(かみやしろ)などの宿が記載されております。

4ページには、をばた(小俣)、志ん茶や(新茶屋)、明星、さいく(斎宮)、くした(櫛田)の宿が記載されております。をばたのステンション(ステーション)前に油屋支店があるのも興味深いですね。その下に参宮鉄道(現JR参宮線)の路線図があり、おうか(現多気駅)・田丸(現田丸駅)・宮川(現宮川駅)までしか記載されておりませんので、この御師講社は宮川駅まで開業した明治26年(1893年)から山田駅(現伊勢市駅)が開業した明治30年(1897年)までの間に発行されたものだと思われます。

次ページから松坂(現松阪市)、六けん(現六軒)と続き最後は京都の宿まで記載されております。

裏表紙には一新講社(いっしんこうしゃ)本部の印章とあります。明治から大正にかけて一新講社を中心として、御師講社や神風講社(じんぷうこうしゃ)などがありましたが、鉄道の発達とともにそれらの講はその役目を終え、衰退していきました。

須原大社 入口

明治の中頃に御師講社を発行していた杉木權太夫邸は「神宮御師資料 外宮篇一」によりますと一之木町九拾壱番屋敷にあったそうですので、現在のどこに当たるか調べましてみました。

外宮別宮の月夜見宮(つきよみのみや)の西側に須原大社(すはらおおやしろ)があります。

須原大社 案内看板
須原大社 社殿
月夜見宮の入口から約200m西側の辺り

山川出版社発行「年報 都市史研究8 都市社会の分節構造」にある文化4年(1807年)伊勢山田一之木絵図によりますと杉木權太夫邸は須原大社の南西約100mほどのところにありましたので、上の画像辺り一帯にあったと思われます。道路の付け変えや拡張があったと思われますので正確な位置はわかりません。当時の須原大社の2倍くらいの敷地面積がありましたので、有力な御師であったと思われます。

杉木權大夫が、いつまで活動を続けていたのかわかりませんが、高千穂館本店の項でも述べましたとおり、大正初期に発行されたと思われる外宮北御門前の旅館・高千穂館の絵はがきの画像の玄関先に丸岡宗大夫と並んで、杉木權大夫・杉木宗大夫の標札が掲げられております。高千穂館出版部発行の参宮の栞に掲載されている「高千穂大食堂」と「高千穂本店」の説明文の中で、業務主任の次男が杉木姓になっておりますので杉木權大夫銘を継いだのでしょうか?大正初期でも旧御師銘はかなりの価値はあったのだと思われます。

引用元:昭和57年 皇学館大学出版部発行 神宮御師資料 外宮篇一、2000年 山川出版社発行 年報 都市史研究8 都市社会の分節構造、昭和9年高千穂館出版部発行参宮の栞

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です