昭和10年(1935年)ころに発行された宇仁館(うにかん)から発行されたパンフレット「伊勢参宮御案内」にある鳥瞰図の外宮付近を拡大した画像です。
大正時代から昭和にかけて一大旅館グループとなった宇仁館は昭和10年ころには上の画像にある旅館の他に内宮前の元・大橋館の対泉閣がありました。宇仁館の名前は宇仁館太郎大夫(うにたちたろうだゆう)という旧御師名が由来だと思われます。今回は宇仁館太郎大夫から宇仁館へと変わったあたりの経緯を調べてみたいと思います。
文久元年(1861年)の度会郡宇治郷之図によりますと宇治の下館町(しもたちまち、現在の内宮神苑)に「宇仁館大夫」の記載がありますので、この時点では内宮の御師だったようです。
明治の中頃までは宇治橋を渡った辺りから火除橋の辺りまで民家(旧御師邸)が立ち並んでいました。明治20年(1887年)から3年をかけて56戸を撤去したそうです。
明治4年(1871年)の御師制度廃止直前での宇仁館太郎大夫は岩淵町276番屋敷同居、「宇仁館たけ」となっていて、家格は平師職でした。お札の配布は地元・度会郡(わたらいぐん)を中心に4,400体くらいなので、三日市大夫次郎や久保倉大夫とは二桁違いますね。
明治10年(1877年)に発行された一新講社の表紙の画像です。一新講社とは明治6年3月に静岡で起こって全国に普及した旅行の組合です。
一新講社の外宮からあさまが下段にあるページの画像です。外宮の項に「山田 外宮まえ うに館太郎」とあり、少なくとも明治10年までには外宮前(北御門前)で旅館を営んでいました。但し、いつ外宮前に移転したかや、この時の経営が宇仁館氏によるものか西田氏によるものかは定かではありません。
明治16年改とある一新講社の表紙の画像です。このころの一新講社は神風講社と提携していたようです。
こちらの一新講社では「廣小じ うに館太郎」となっています。「廣小じ」とは広小路のことで、外宮北御門前付近のことを指します。
明治16年改正とある松嶌屋善三郎発行の一新講社の表紙の画像です。松嶌屋善三郎は松島館の経営者です。
こちらの山田外宮前の項は「宇仁たち太郎」となっています。「ウニカンタロウ」と読んでしまう人が多かったのでしょうか?
一新講社に加盟し順調に経営したと思われる宇仁館太郎は推測の域ですが明治19年ころに久保倉大夫の名跡を入手し、「久保倉大夫こと 宇仁館」となりこのときに「ウニカン」と読み方を変えたのではないかと思われます。
明治27年改正とある一新講社の表紙の画像です。
こちらの山田の項では宇仁館と久保倉大夫が併記されて、宇仁館の上に「丸に二つ引き」の家紋が登場しています。
明治17年から明治26年の間に発行・改正された一新講社を調べれば、どの時点で宇仁館に変わったかが判ると思いますが、今後の課題ですね。
旅館 神風館跡②でもご紹介した明治36年(1903年)に関西鉄道株式会社から発行された「関西参宮鉄道案内記」にある宇仁館の画像です。
北御門前(広小路)時代の宇仁館の画像になり、現在の北御門前神苑内または駐車場付近になります。鬼瓦には「丸に二つ引き」の家紋が入っています。
現在の北御門前神苑の画像です。
宇仁館は大正元年(1912年)ころに三日市大夫次郎の土地建物と名跡を取得し、大正8年(1919年)ころには山田駅前の神風館支店(龍大夫)を吸収しました。
御師銘だけで考えますと、御師制度廃止以前は平師職で檀家も少なかった「宇仁館太郎大夫」が約半世紀で檀家数トップ3とも言える久保倉大夫、三日市大夫次郎、龍大夫を全て吸収したのには「下克上」と言いますか、「アメリカン ドリーム」ならぬ「伊勢御師 ドリーム」と言いますか、何かロマンを感じますね。
出典:明治36年 関西鉄道株式会社発行 関西参宮鉄道案内記、昭和60年 皇学館大学出版部発行 神宮御師資料 外宮篇三、平成30年 秋田耕司著・発行 宇仁館物語