町並みの今昔 商店編

つぼや清兵衛① 壺屋 煙草入 擬革紙 伊勢街道 櫛田の渡し 大田南畝

今回は江戸時代から大正時代にかけて、和紙を固めて桐油をひき、型押しして革に似せた擬革紙(ぎかくし)で作った煙草入れを製造・販売し、伊勢参宮の土産として大流行して巨万の富を得たとされる「つぼや清兵衛」本店跡を「櫛田の渡し」からご紹介します。

伊勢街道の櫛田川手前(松阪側)にある道標の画像です。道標には文政2年(1819年)3月と刻まれています。

クランクを進んで土手を上がると嘗ての櫛田の渡しがあった場所にでます。冬・春の渇水期には仮橋が架けられ、夏・秋の増水期には舟で参宮客を渡し、それぞれ橋銭、舟銭を徴収していたそうです。

画像の左側に写っているのは近鉄・山田線の鉄橋です。

櫛田川を渡って伊勢街道を600mほど進んだ右側に「つぼや本店」はありました。江戸時代は飯野郡稲木村(いいのぐん いなぎむら)で現在の松阪市稲木町になります。

つぼや清兵衛本店跡には現在は太陽光パネルが設置されていて時代の流れを感じますね。GoogleマップにもHistoricアイコンで「壺屋池部清兵衛屋敷跡」で登録されています。

壺屋は屋号で代々の主人は池部清兵衛を名乗り、菅笠(すげがさ)や桐油合羽(とうゆがっぱ)等を製造していました。天明(1781年~1789年)の頃に擬革紙で煙草入れを作ることを発明し、人気を博しました。

明治26年(1893年)に三重日報社から発行された「三重県下商工人名録」の飯野郡漕代村(こいしろむら)の項に「壺屋紙煙草入本家 稲木 壺屋 池部清兵衛」とあります。

擬革紙自体は貞享元年(1684年)に多気郡新茶屋村(たきぐん しんちゃやむら、現在の明和町新茶屋)の三島屋・堀木忠次郎(三忠)により製造されていたようです。

明治29年(1896年)に小柳津篤太郎から発行された「神都土産繁昌記」にある「つぼや清兵衛」の広告の画像です。支店は「宇治山田町大字尾上町 外宮より十丁東」になっています。この頃は支店は尾上町(おのえちょう)にあったようです。煙草入れの字は「御多葉粉入」となっており当て字になっています。

右側には「明治十年内国勧業博覧会ニ於テ鳳紋御賞牌拝受仕候」と書かれています。

広告の左上辺りを拡大した画像です。

参宮鉄道が山田駅(現在の伊勢市駅)まで開通した明治30年(1897年)以降に印刷された煙草入れが入っていたと思われる紙袋の表の画像です。実際の大きさは縦23.5cm、横16.5cmになります。支店が尾上町から宇治橋前に移転し、商標が登録されています。

袋の上部を拡大した画像です。国内外で色々な賞を受賞していたのですね。

紙袋の裏面の画像です。参宮鉄道開通や内宮宇治橋、贋物多く、登録商標いなぎつぼや清兵衛などの文字は読み取れます。「ニセモノが多いので注意してください」というようなことが書かれているのだと思います。

類似品が多く出回るほど人気があり、蜀山人(しょくさんじん)とも呼ばれた天明から享和を代表する狂歌師・大田南畝(おおた なんぽ)が詠んだ「夕立や いせの稲木の煙草入れ ふるなる光るつよいかみなり」という歌もあります。下の句が「降る、鳴る、光る、強い雷」と「古成る、光る、強い紙なり」が掛詞(かけことば)になっています。擬革紙は使い込むほど柔らかくなり本物の革のようになったそうで、煙草入れが古くなるほど値打ちがでたのでしょう。

明治39年(1906年)に松本米次郎から発行された「伊勢参宮案内記」にある神都土産の広告の画像です。

最初に擬革紙を製造していた「三忠」も紙煙草入れを製造・販売していたようです。この三忠もつぼやと同じく元々の店は伊勢街道沿いにありました。

出典:三重県環境生活部文化振興課ホームページ みえ歴史街道、松阪市ホームページ、伊勢擬革紙の会ホームページ、明治26年 三重日報社発行 三重県下商工人名録、明治29年 小柳津篤太郎発行 神都土産繁昌記、明治39年 松本米次郎発行 伊勢参宮案内記、wikipedia

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