前回、伊勢河崎商人館①では母屋とエスサイダーを中心にご紹介しましたが、今回は河崎まちなみ館と山田羽書を中心にご紹介したします。
昭和5年(1930年)6月に発行された敬神教育会から発行された「伊勢参宮」に掲載されている「小川酒店」の広告の画像です。大正2年(1913年)の広告では「小川三左衛門商店」でしたが、この広告では「小川酒店」になっております。
昭和5年3月10日から5月10日に神都公会堂前(現在の宇治山田駅前周辺)で行われた御遷宮奉祝・神都博覧会(しんとはくらんかい)において正門前に設置された「銘酒 白鹿(はくしか)」の広告塔の画像が載っています。
河崎商人館の事務局前に掲げられている「白鹿」の商標有権の看板です。小川酒店は寛文2年(1662年)創業の灘の銘酒「白鹿」の代理店でもありました。
河崎まちなみ館(後述)に展示されている「白鹿」の看板の画像です。「白鹿」の銘は長生を祈る中国の神仙思想に由来し、自然の大いなる生命の気と日々の楽しみと長寿の願いが込められています。
母屋を通り抜けた広場の反対側に蔵が二つ並んで建っています。右側の蔵が明治期に建てられ、あわびの粕漬を製造していた蔵になり「角吾座(かどござ)」と命名された多目的スペースになります。左側の蔵が明治5年(1872年)に建てられ、伊勢と河崎の歴史と文化の資料が展示されている「河崎まちなみ館」になります。
河崎まちなみ館の1階は企画展示室になっていて、たくさんの古文書や古地図、古道具類も展示されています。
2階は常設展示室になっており、日本最古の紙幣といわれる「山田羽書(やまだはがき)」など河崎の歴史資料が展示されております。
山田羽書は慶長15年(1610年)ころに山田(外宮の鳥居前町、現在の伊勢市中心部)の町衆によって生み出され、寛政元年(1789年)までは山田奉行公認のもと、山田の自治組織である「山田三方(やまださんぽう)」の管理下で発行されていました。
寛政2年(1790年)から慶応3年(1867年)までは山田奉行の管理下で準公札(幕府札)的に発行され、明治元年(1868年)からは度会府(わたらいふ、明治政府)の管理下で発行されていました。
筆者所有の山田羽書の表面の画像です。山田羽書の大きさは縦が16,2cmで横が2,8cmになり、偶然か必然かは不明ですが現在の一万円札の横幅と山田羽書の縦の長さが全く一致しています。
表面は上部が頭判、左上に目附判、真ん中が銘判に朱印・袖判、その下が枕判で一番下部が異儀判(いぎはん)になります。
裏面の画像になります。この山田羽書は明治期に発行されたものになりますので、度会府札(わたらいふさつ)になるのかも知れません。
裏面は上部が裏判、真ん中が裏貫(うらつなぎ)、下部が組判になります。7年ごとに裏判の図柄を変更したり、繊細な多色刷りや重ね刷りなど偽造防止の工夫もされていたようです。
山田羽書は藩札(はんさつ)の原型にもなり、明治4年(1871年)には全国の藩の約8割に当たる244藩で藩札が発行されていましたが、明治政府は同年の廃藩置県を機に藩札回収令を発布しました。山田羽書は明治3年には発行が停止され、翌年からの藩札回収令に準じて回収が行われ明治6年8月にはほぼ回収されていたそうです。
商人館を見学した後は、道路を挟んだ「商人蔵カフェ」で休憩しました♪
チーズケーキを注文してみました。レアタイプでとても美味しかったです^^。
出典:伊勢河崎商人館ホームページ、辰馬本家酒造株式会社ホームページ、wikipedia