御師

御師 久保倉大夫 久保倉右近 路草 一新講社 宇仁館

前々回、久保倉大夫邸跡が現在のどこになるのかを調べてみましたが、今回は久保倉大夫の出自や檀家の範囲、御師廃止以降の経緯など調べてみたいと思います。

久保倉大夫は中世から続き、山田三方の年寄家を務める有力な御師でありました。しかしながら、その出自は判然とせず明応6年(1497年)にその名が現れ、一説によると常陸国出身であるとも云われているそうです。

石標の側面を撮影した画像です。松尾芭蕉が貞享5年(1688年)に久保倉右近(俳号:路草)邸で詠んだ句が刻まれています。

石標の裏面の画像です。このときの通称:久保倉右近は久保倉盛僚(もりとも)で寛文10年(1670年)に堤盛員(つつみ もりかず)の六男として生まれ、久保倉弘宣(ひろのぶ、1680年没)の養子になりました。実父、養父さらに実兄・盛尹も和歌、連歌、俳諧に広く通じていたので、若い路草邸に芭蕉が訪れたのでしょう。

「安永六年外宮師職諸国旦方家数改覚」によりますと久保倉大夫こと久保倉弾正は常陸国(現在の茨城県)、下野国(現在の栃木県)、伊予国(現在の愛媛県)を中心に25万9千余りのお札(大麻)を配布しておりました。当時のこの配札数は三日市大夫次郎の35万3千余りに次ぐ多さでありました。

前回の久保倉大夫邸図を合成した画像にさらに三日市大夫次郎邸平面図を合成してみました。境界線に隙間が出来てしまっていますが、曲線の形状は一致していると思います。

明治4年(1871年)7月に御師制度が廃止された後も久保倉大夫は旅館として営業を続け、明治14年に「一新講社」に加盟しました。久保倉家には明治18年までの宿帳が残されているそうですので、この頃に宇仁館・西田氏に看板(御師銘)と建物を売却したのではと推測されます。

明治24年(1891年)に久保倉大夫邸跡地には神宮農業館が建設されました。その後、明治38年(1905年)に神宮農業館は倉田山に移転しました。

明治27年改正の「一新講社」の表紙の画像です。

「一新講社」の山田から古市のページの画像です。山田の項に宇仁館と久保倉太夫(大夫)の名前があります。

ホームページ「伊勢探訪記」中の「明治期における御師の旅館」によりますと明治31年時点の久保倉大夫の所有者は西田氏(宇仁館)になっていて、また発行年は不明ですが「久保倉大夫事 宇仁館」という引札の画像もあります。

明治42年(1909年)改正の宇仁館発行の一新講社の表紙の画像です。

同じ一新講社の裏表紙の画像です。

明治42年改正の一新講社の津市から神社までの画像です。山田外宮の項には「御師 久保倉大夫」とありますが電話番号の記載はないので前述のとおり「久保倉大夫事(こと)」ということなのでしょう。この時点で御師廃止後38年経っていますが、まだまだ旧御師銘は影響力があったのだと思われます。

大正元年から大正7年の間に発行された絵はがき「山田駅前通り」の画像です。右側の建物が宇仁館支店になります。

「山田駅前通り」の宇仁館支店辺りを拡大した画像です。よく見ると画像中心辺りに「三日市大夫次郎」の看板が掲げられています。

宇仁館は大正元年(明治45年、1912年)ころに旧御師・三日市大夫次郎の建物と看板を譲り受け、より影響力の強い御師銘を手に入れたのでこれ以降久保倉大夫を名乗らなくなったのではないかと推測されます。

現在の久保倉大夫邸跡を伊勢市駅側から画像です。右側(西側)の建物は旧山田郵便局電話分室で東側が伊勢市民活動センター(いせシティプラザ)になります。この辺りで松尾芭蕉が「紙ぎぬの ぬるともをらん 雨の花」と詠んだのですね。

出典:元禄前後の伊勢歌壇 神作研一、ホームページ伊勢探訪記 明治期における御師の旅館 NFC、平成30年 秋田耕司 伊勢を創った太田小三郎、伊勢度会名軸図鑑 NFC、平成31年 鳥羽商船高等専門学校紀要 水野逸夫 廃止後の伊勢御師、昭和61年 皇學館大学出版部発行 神宮御師資料 外宮篇四、平成2年 神宮文庫発行 三日市大夫次郎邸平面図

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