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上の画像は2021年大晦日の22:00ころの宇治橋前です。
今回は昭和36年(1961年)1月に廃線となった三重交通神都線の二見線にあった汐合鉄橋跡をご紹介します。内宮、外宮と二見浦間を移動する際に旧二見街道の汐合橋を通りますとすぐ上流側に橋脚が見えます。
明治42年(1909年)から43年に宇治山田市参事会から発行された「三重県宇治山田市市街図」の二見町付近を拡大した画像です。地図にある川が 五十鈴川(いすずがわ)で、神路山(かみじやま)を源流とし、内宮(皇大神宮)の西端を流れ、鹿海町(かのみちょう)付近で五十鈴川派川(江川)と本流に別れますが、太平洋戦争以前は別れた本流の方を汐合川と呼んでいたようです。
明応7年(1498年)8月の大地震以前は本流が江川の方向に流れ江海岸に注いでいましたが、大地震による地盤の隆起によって汐合川が本流になったそうです。
さらに拡大した画像です。旧二見街道付近の川には「汐合川」と記載があります。「汐合」は「しおあい」と読みますが通称は「しわい」です。 現在でもこの辺りのことを普通に「しわい」と呼んでいます。
昭和16年(1941年)9月に日本統制地図株式会社から発行された「伊勢参宮案内地図」の二見付近の画像です。この地図でも別れた本流は「汐合川」となって、江川のほうが「五十鈴川」となっています。
昭和29年(1954年)6月に近畿交通社から発行された「伊勢志摩観光地図」の二見付近を拡大した画像です。この地図では本流に「五十鈴川」とあります。どの時期から「五十鈴川」と称するようになったかは不明ですが、遅くとも昭和12年ころまでには称していて、地図などの印刷物は校正が遅れていた可能性はあります。
明治19年(1886年)6月に汐合川に初めて橋が架けられ、長さは786尺(約238m)、幅は12尺(約3.6m)の木橋でありました。明治42年(1909年)2月の架け替えのときに二見側に50間(約91m)の突堤を築いて橋梁の長さを短縮し、長さ480尺(約145m)、幅18尺(約5.5m)の橋梁が架けられました。
明治40年(1907年)6月15日のスタンプ印のある絵はがき「汐合橋夕照ノ景」の画像です。キャプションに夕照とありますので二見側からの撮影で、突堤が築かれる前の初代・汐合橋になりますね。
神都線は明治36年(1903年)8月に宮川電気により本町ー二見間を開業し、翌年2月に社名を伊勢電気鉄道に変更しました。この「汐合橋夕照ノ景」には電車の木橋が写っていないので撮影は明治36年8月以前になります。
大正後期から昭和初期の間に発行された絵はがき「汐合川鉄橋」の画像です。
開業当初の電車の橋は木橋でありましたが、二見街道の汐合橋の架け替え後(同時?)に上流側に突堤が築かれ、鉄橋に架け替えられました。鉄橋の完成は明治44年(1911年)4月でありました。電車が走っているところの下に見える石垣が突堤部分になります。
現在では突堤の石垣はコンクリートに変わり、線路跡の両脇には桜が植えられています。
突堤上の線路跡の画像です。ここを50年間電車が走っていたのですね。汐合鉄橋跡②に続きます。
出典:伊勢市ホームページ 名勝二見浦保存管理計画、大正2年 二見浦保勝会発行 二見名勝誌、平成3年 勢田川出版発行 伊勢の市電(山田のチンチン電車)、wikipedia