神都線 汐合鉄橋跡①からの続きになります。前回は汐合橋、汐合鉄橋の歴史などをご紹介しましたが、今回は大正期に発行された絵はがきを中心に様々な角度から撮影された汐合橋の姿をご紹介します。
前回もご紹介した明治36年(1903年)の伊勢電車(神都線)開業以前の汐合橋の画像です。
明治44年(1911年)から大正4年(1915年)の間にMATSUMOTOから発行された32枚組絵はがきセット「伊勢名勝」のうちの「二見ノ浦汐合橋」の画像です。明治44年4月完成の鉄橋が写っています。
大正14年2月5日の消印のある絵はがき「二見ヶ浦汐合川」の画像です。汐合橋の袂に建っている道標は現在でも存在します。「すぐ」とは「真っ直ぐ」という意味だそうです。
右側に写る伊勢電車の鉄橋の構造は明治時代によく採用された「プラットトラス」という構造です。
道標は現在でも同じ場所に建っていると思われ、汐合橋は昭和12年(1937年)に架け替えられ、10mほど下流側に移動しています。汐合橋の付近は潮の満ち引きがある汽水域になりますので、橋脚の下のほうのアーチ部分は干潮になると見えます。
潮が満ちているときはアーチ部分は隠れてしまいます。
大正7年(1918年)以降に発行された絵はがき「伊勢二見ヶ浦風景 五十鈴川の下流汐合川の両橋」の画像です。
明治44年から大正4年の間に発行された絵はがき「伊勢二見浦汐合橋ト鉄橋」の画像です。 この絵はがきは二見側からの撮影になります。
昭和12年に架け替えられた「汐合橋」の二見側、下流側の親柱(おやばしら)の画像です。「志保阿比者之(しほあひはし)」と刻まれていて、それぞれの文字は変体仮名になります。歴史を感じる親柱ですね。
下流側の親柱の側面には「昭和12年2月架換」と刻まれています。上流側の親柱には「五十鈴川」と刻まれていて当時すでに「汐合川」でなく「五十鈴川」と称していたと思われます。
出典:伊勢市ホームページ 名勝二見浦保存管理計画、大正2年 二見浦保勝会発行 二見名勝誌、平成3年 勢田川出版発行 伊勢の市電(山田のチンチン電車)、wikipedia