今回は大正から昭和の戦後まで伊勢の古市に存在した料理旅館「常磐(ときわ」跡をご紹介します。古市界隈にあった旅館の中でも書籍やパンフレット等に広告も見当たらない情報の少ないマイナーな料理旅館になります。「伊勢古市」に括られていましたが正確には久世戸町(くせどちょう)にありました。
常磐から発行された3枚組の絵はがきセットの畳紙(たとうがみ)の画像です。大正11年(1922年)に三重県勧業協会から発行された「三重県商工案内」の「料理莨(たばこ)販売」の項に「常磐 宇治山田市久世戸町 松原安吉」とあります。大正3年(1914年)に実業興信所から発行された「宇治山田商工人名録」の「久世戸町」の項には常磐は記載されていないので、大正3年から大正11年の間に開業したと推測できます。
3枚のうち、玄関を撮影した絵はがきの画像です。「伊勢古市 御旅館兼御料理 常磐」とありますが、その他の説明文はありません。
2種類の庭園が写る絵はがきの画像です。庭園は広く左側の画像では渡り廊下も見えます。
2枚目とは別の庭園と大広間が写った絵はがきの画像です。庭園の画像から敷地はかなり広く、建物も大きかったかったような感じがします。
久世戸町の地元の方にこの「常磐」がどこにあったのか伺ったところ、修道小学校と徴古館道の間にあったということです。画像の左側にある電柱の奥辺りが入口で、間口は狭かったのですが奥行きはかなりあったそうです。
修道小学校の東側一帯にある古いコンクリート製の擁壁が常磐との境界で、この上一帯に常磐がありました。この擁壁は常磐が開業した大正時代に造られたものかも知れません。
昭和6年(1931年)に宇治山田商工会議所から発行された「宇治山田商工案内」の料理店の項に「久世戸町 常磐 松原安吉」とあり、その後いつまで経営されていたかは不明ですが昭和36年(1961年)頃まで建物はあったそうです。
昭和46年(1971年)に三重県郷土資料刊行会から発行された野村可通著「伊勢古市考」の「大正の古市」の項に「すし長、松月楼は共に若い衆芝居の花形・松原利吉の経営で同系列に、割烹の常磐、旅館武蔵屋があった」と記載されています。すし長、松月楼は現在、古市街道沿いにある2019年オープンのジビエと和食とワインのお店「Bambi」さんの辺りにありました。
松月楼は貸座敷(明治5年以前は妓楼と呼ばれた)になり、上述のとおり大正中期頃に久世戸町に同族経営で常磐を開業させと推測できます。
松月楼と道路を挟んだ少し北側に有名な杉本屋、備前屋がありました。昭和初期まではこの辺り一帯に貸座敷・芸奴置屋が建ち並んでいました。
昭和初期に絵画研究会印刷工芸社から発行された絵はがきセット「伊勢参宮 百八景」のうち「古市のおもかげも今は限られたれど高層の旅館ありて」の画像です。撮影場所は特定できませんが当時の雰囲気が伝わってきますね。
江戸時代に三大遊郭に数えられた古市も交通の発達などにより衰退し、昭和初期には芸奴置屋4軒(杉本屋、備前屋、幾千代楼、可祝楼)、貸座敷18軒にまで減っていました。昭和10年(1935年)頃には街道の北から順に可祝楼、角前楼、幾千代楼、古文字楼、千寿楼、備前屋、杉本屋、松月楼、宮崎楼を含めた9軒ほどになりました。昭和15年の杉本屋の火災を機に杉本屋、備前屋以外は店を閉め、再建された杉本屋、備前屋も昭和20年7月の空襲により壊滅し、古市から貸座敷が無くなりました。
終戦後、麻吉旅館の前に1軒赤線ができ、後にもう1軒できましたが間もなく停止になり、遊女屋は古市から全く姿を消してしまいました。
出典:大正3年 実業興信所発行 宇治山田商工人名録、大正11年 三重県勧業協会発行 三重県商工案内、昭和6年 宇治山田商工会議所発行 宇治山田商工案内、昭和46年 三重県郷土資料刊行会発行 野村可通著・伊勢古市考、wikipedia