町並みの今昔 旅館編

備前屋跡① 牛車楼・桜花楼 古市遊郭 伊勢音頭 びぜんや

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江戸時代、外宮と内宮を結ぶ街道沿いにあった古市(ふるいち)は江戸の吉原、京都の島原と並んで三大遊郭のひとつに数えられました。最盛期の天明年間(1781 ~1789年)頃には妓楼70軒、遊女1000人、大芝居小屋2軒、浄瑠璃小屋数軒の大歓楽街でありました。

豊国画「伊勢古市踊之図」

古市の遊廓の中でも、備前屋(びぜんや:別名 牛車楼・桜花楼)、杉本屋油屋は別格で、中でも備前屋は古市屈指の大楼閣で大広間「桜の間」を持ち、ここで客をもてなす為に、亀の子踊り(伊勢音頭の総踊り)を遊女に唄い踊らせるので有名でありました。この大広間が、備前屋のもう一つの別名である桜花楼(おうかろう)の由来となったそうです。

画像奥が外宮方面

備前屋があった場所には石標が立っております。外宮方面からですと古市街道を進み古市の信号を30mほど越えたところの右側に「テニスコート前」のバス停があります。

さらに10mほど進んだところのブロック塀の脇に備前屋跡の石標が立っております。

石標です。備前屋の左隣り(南隣り)に杉本屋がありました。

拡大図です。

大正中期から昭和初期に発行された絵はがき「伊勢古市びぜんや全景」の画像です。塀には備前屋の別名である牛車楼(ぎゅうしゃろう)に因んだ源氏車(げんじぐるま)の定紋が施されています。

古市は嘉永年間(1848~1855年)頃から衰退しはじめ、明治期の鉄道開通、御幸道路開通などで人々の流れが変わりさらに衰退しました。妓楼としての備前屋は大正4年(1915年)に廃業、その後経営者が代わり伊勢音頭のお店?として営業を続けたようですが、昭和14年(1939年)3月の火災により杉本屋とともに焼失してしまいました。

2019年11月3日 画像追加

大正2年(1913年)岡田商店発行の「両宮案内」にある備前屋の廊下の画像です。廊下の手すりにも源氏車の定紋が施され、提灯にも源氏車の定紋が描かれています。

2019年12月12日 画像追加

絵画研究会が発行した「伊勢音頭」の絵はがきの画像です。帯や提灯、垂れ幕に源氏車の紋様がありますので、備前屋の伊勢音頭と分かります。お客さんはきちんと正座をして見入ってます。

上の画像は大正8年(1919年)鳳鳴社発行の伊勢参宮二見鳥羽朝熊山案内に掲載されている備前屋の広告です。

出典:大正8年 鳳鳴社発行の伊勢参宮二見鳥羽朝熊山案内、平成28年 伊勢古市参宮街道資料館発行 古市参宮街道と周辺地域ガイドマップ手帳、昭和61年国書刊行会発行 ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 伊勢二見小俣、大正2年 岡田商店発行 両宮案内、wikipedia

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