御師

御師 橋村肥前大夫邸跡 橋村八郎大夫 神都図書館 昌久寺

前回ご紹介した、明治中期までの交通の要衝「筋向橋」を南側から撮影した画像です。画像右奥方向が河崎方面(伊勢市駅方面)となり、「うらのはし商店街」の入口となります。商店街を少しはいりますと、北側に絲印煎餅(いといんせんべい)の播田屋浦之橋店(はりたや うらのはしてん)があり、その左側に路地があります。

路地を入りしばらく進みますと右側に「伊勢メディケアセンター ひかりの橋」があります。この建物がある場所にかつて、外宮御師の橋村肥前大夫(はしむら ひぜんだゆう)邸がありました。

御師・橋村大夫家は後醍醐天皇の御世(みよ、1318年~1339年)に始まり、橋村主膳家(しゅぜんけ)を本流として13家に分かれました。江戸初期に分家した橋村宰記家(さいきけ)が慶長10年(1605年)に初代佐賀藩主・鍋島勝茂より「肥前大夫」の呼称を授かりました。

橋村肥前大夫家は江戸時代には肥前国・筑後国(現在の佐賀県・長崎県・福岡県の南西部)を中心に14万7000体余りのお札を配布しておりましたが、明治9年(1876年)に絶家し、本流を継いでいたと思われる橋村八郎大夫家に合家されました。

参宮案内より

明治40年(1907年)に参宮鉄道株式会社運輸係から発行された「参宮案内」の旅館・料理店の一覧には「橋村八郎大夫」銘がありますので、明治4年(1871年)の御師廃絶後もしばらくは旅館業を続けていたようです。尚、旅館・橋村八郎大夫と橋村肥前大夫邸跡が同一の場所かどうかは不明です。明治30年(1897年)に開業した山田停車場(現在の伊勢市駅)前の旅館が記載されておりませんので、この一覧は明治30年前後に作成されたものだと思われます。

その時期以降、筆者の手元にある資料において「橋村八郎大夫」銘は確認できませんので、参宮鉄道開業を機に参宮客の流れが変わってしまい、旅館業を廃業したと思われます。

その後、橋村肥前大夫邸(橋村八郎大夫?)跡は専売局宇治山田出張となり、昭和3年(1928年)には建物の一部を岩淵町箕曲(いわぶちちょう みの、現在の伊勢市観光文化会館の辺り)に設立された神都図書館(しんととしょかん)の建物として移築されました。

左の建物が神都図書館(現・昌久寺本堂)

宇治山田市(現在の伊勢市)が発行した神都絵葉書セットのうち、「市街中央部展望 (右ヨリ神都記念館・公会堂・図書館)」の画像になります。

昌久寺本堂:元橋村肥前大夫邸本宅

神都図書館は昭和24年に宇治山田市立図書館に改称し、昭和28年には伊勢会館(伊勢市観光文化会館の前身)を建設するため、隣りの神都公会堂とともに解体されました。その後、建物は伊勢市一色町(いっしきちょう)の昌久寺(しょうきゅうじ)の本堂として移築されました。伊勢市内に遺る貴重な御師邸の遺構のひとつになります。

昌久寺山門

三重県ホームページによりますと昌久寺の山門も橋村大夫邸のものだったそうです。

勢田川・防潮水門

昌久寺への道順は伊勢市駅からですと八間道路を北上し、国道23号線を右折します。田尻町(たじりちょう)の交差点を左折し、道なりに進みますと勢田川の防潮水門が見えてきます。

水門を渡って突き当たりを右折すると10mほど先に左に入る路地があり、カーブミラーには小さい看板があります。

路地を入り、80mほど進みますと昌久寺の山門、本堂が見えてきます。

引用元:昭和59年 皇学館大学出版部発行 神宮御師資料外宮篇二、平成20年 常磐恵一著 常勝寺とその時代、平成16年 弘文堂発行 久田松和則著 伊勢御師と旦那、三重県ホームページ・三重の歴史・文化散策マップ、wikipedia

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