町並みの今昔 道路編

桜の渡し 宮川の渡し 宮川堤 日本さくら名所100選

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京都、名古屋方面から伊勢街道で神宮を目指してきた参宮人は宮川に辿り着きます。明治中期までは宮川には橋が無く、舟に乗り換えて宮川を越えました。この渡し場を明治期以降は「桜の渡し」「下の渡し」と呼びました。

これに対し奈良・和歌山方面からの伊勢本街道から田丸を経た渡し場を「柳の渡し」「上の渡し」と呼びました。

「桜の渡し」があった場所は南部自動車学校(伊勢市小俣町元町)前の信号交差点にある堤防を越えたところになります。

宮川親水公園の看板脇にある堤防の階段を登り、河川敷に降りますと「宮川 桜の渡し」の案内標があります。

画像奥が神宮方面

案内標の先には渡し場跡があります。江戸時代初期、松阪口(小俣の渡し、明治期以降の桜の渡し)は鳥羽藩の支配となり、田丸口(川俣《川端》の渡し、柳の渡し)は紀州藩の支配となり舟賃を取っていましたが、延宝4年(1676年)5月より徳川幕府の許可により両舟渡とも無料になりました。

現在の宮川橋を渡った辺り(伊勢市宮川町)が「桜の渡し」の対岸側になり、そこにも案内看板があります。画像右側の道路が参宮街道です。

案内看板の画像です。看板にある絵は歌川広重の「宮川の渡し」の図です。看板の説明文にもありますように、「桜の渡し」の宮川町側には御師の出迎えの看板が林立し、また目出たく参宮を終えて帰る伊勢講を送る道中歌が響いていたそうです。

明治30年(1897年)に参宮鉄道(現在のJR参宮線)が山田停車場(現在の伊勢市駅)まで開通したことにより、渡し船はその役目を終えることとなりました。

昭和6年から17年(1931年~1942年)頃に発行された伊勢全集にある「伊勢名勝 桜花爛漫と競い咲く 桜の名所宮川堤の春景色」の画像です。

宮川は昔より度々洪水に見舞われてましたが、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の御世の寛永元年(1624年)に5代山田奉行・中川半左衛門忠勝が幕府に訴え宮川堤を築きました。この堤が現在の宮川堤の始まりとなります。寛永21年(1644年)に洪水のため、三百間余り(1間≓1,818m、約550m)の堤が破壊されてしまいました。8代山田奉行・石川大隅守政次は正保4年(1648年)に宮川堤を修繕し、現在のような大堤となりました。

宮川堤は昭和12年(1937年)に三重県指定名勝に指定され、平成2年(1990年)には日本さくら名所100選にも選ばれ、現在も桜の咲くころには大変な賑わいをみせております。

出典:明治30年 古川小三郎発行 伊勢参宮案内、平成28年 伊勢商工会議所・伊勢文化舎発行 改訂新版 検定 お伊勢さん、伊勢市ホームページ、wikipedia

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