以前に内宮の宇治橋前にあった大橋館跡をご紹介しましたが、今回は大橋館跡②として違った画像などをご紹介します。
明治34年(1901年)7月改とある大橋館が発行した「伊勢参宮案内記」の表紙の画像です。折りたたみ式のパンフレットで縦が17cm、広げると横が90cmあります。
広げた表面には大橋館用達(ようたし)宿案内記とあり説明が書いてあります。近来、旅籠屋(はたごや)の者ども一新講、真誠講、御師講などと唱え仲間を組み合い、宿引きを多人数雇い入れ、道中筋の仲間内宿屋へ配り置き、御参宮人に対し種々の偽りを申し上げ、仲間内の宿屋へあく迄おすすめ申し上げ、または御荷物、為替金などをお預かり申し、先宿まで届け可申しなどと色々、品を変え御せまり申し上げ候・・・、と他の講を非難する内容書かれています。
一新講社といえば宇仁館、松島館が加盟する組織、真誠講社は神風館が加盟する組織、御師講社は三日市大夫次郎が加盟する組織ですね。当時は熾烈な参宮客の奪い合いだったことが想像できます。
用達宿の名古屋から大阪の項の画像です。「神道大橋教会」を組織していたようで大橋館はその本部になっていました。
大きく書かれた大橋館の左には「御師荒木田神主」と書かれています。荒木田氏は天見通命(あまのみとおしのみこと)を祖とし、内宮の禰宜、権禰宜を御師制度が廃止になった明治4年まで世襲していました。早くから一門、二門に分かれ、一門で沢田家、薗田(そのだ)家、井面(いのも)家、二門で藤波家、中川家、佐八(そうち)家などが栄えました。
この頃の大橋館は荒木田神主の名跡も使用できたのですね。
伊勢参宮案内記の裏面にある地図のうち名古屋、山田、京の辺りの画像です。地図も街道沿いの宿場町から鉄道の駅にすっかり置き換わっています。
大正4年(1915年)以前に発行されたキャプション(説明文)のない宇治橋上から西詰を撮影した手色彩された絵はがきの画像です。鳥居奥、左側にドーンとあるのが大橋館の建物です。右側には中川采女大夫邸、神洲館が並んでいました。
現在の画像です。大正4年に神苑整理のため、大橋館、神洲館などは移転しました。鳥居奥にある黒松は現在でも健在です。
同じく大正4年以前に発行された絵はがき「伊勢内宮宇治橋前 参宿所 大橋館」の画像です。
建物入口の右側に「参宮自動車待合所」と書かれた看板があります。
入口左側に「大橋館」、「自動車待合所」と書かれた看板があり、その脇にT型フォードが待機しています。T型フォードは明治41年(1908年)に発売されましたので、この絵はがきは明治41年以降の撮影になります。
T型フォードが待機しているところは現在の衛士見張所の辺りになります。
出典:コトバンク、wikipedia