町並みの今昔 旅館編

内宮宇治橋前 神洲館跡 鈴七 御師 中川采女大夫 岡田七郎大夫 

7月7日午後の内宮宇治橋前の様子です。先週金曜日までは賑わいを取り戻していた伊勢神宮でしたが、あいにくの雨模様と東京都のコロナ感染者確認数が連日100人を越え、自粛ムードになりつつあるのか閑散としていました。

御師・沢瀉大夫内宮前・大橋館跡の記事でも書きましたが、大正4年(1915年)に神苑整備のために宇治橋の西岸辺りにあった民家・旅館等を四十数戸を取り壊しました。

画像奥がおはらい町の入口、右側は鳥居の柱

現在の宇治橋前の鳥居とおはらい町の間は広場になっておりますが、神苑整備以前は下の画像になります。

明治39年(1906年)10月17日のスタンプ印のある絵はがき「伊勢内宮宇治橋前 旅館 神洲館(鈴七)」の画像です。画像左側の建物は元旧御師・岡田七郎大夫(おかだ しちろうだゆう)邸である旅館・神洲館(しんしゅうかん)になります。屋号は「鈴七」といい五十鈴川と七郎大夫の組み合わせでしょうか?

右側の建物は日本国旗で半分隠れていますが標札に「采女神主」とあり、旧御師・中川采女大夫(なかがわ うねめだゆう)邸になります。明治4年(1871年)に御師制度は廃止になりましたが、中川采女家は引き続き旧檀家を中心に宿泊の便宜を図り、御神楽の仲介をしていたようです。年代は判りませんが旧御師・岩井田右近、柳谷大夫らと共に参宮者の宿泊施設として「神洲館」を斡旋し、また中川采女家は「九州参宿本部」とされていたそうです。

明治42年(1909年)に伊勢山田 大竹活版印刷所製造、三日市大夫次郎発行の「御師講社」の表紙の画像です。

御師講社の内宮・朝熊・二見・神社の項の画像です。神洲館は御師講社に加盟していました。

大正7年から8年ころに発行されたと思われる絵はがき「宇治橋前公園」の画像です。画像中央の大きな建物が大正4年に宇治橋前から内宮停車場前に移転した神洲館になります。

神洲館辺りを拡大した画像です。電車と比べてみましても、かなり大きな建物になります。このときの内宮前停留所の待合室は小ぶりな建物です。

その後、待合室の建物は大きく建て替えられ、神洲館の建物は目立たなくなってしまいます。移転後の神洲館は昭和11年(1936年)11月の宇治今在家町(うじいまざいけちょう)の大火により類焼し、その後の復興はならなかったそうです。

現在の内宮前のバス停と待合室の画像です。路面電車(三重交通・神都線)は昭和36年(1961年)1月に廃止になり、バスに転換されました。待合室の建物は小さくなりましたが、看板は「乗合自動車内宮前驛」と書かれており昔の雰囲気を醸しています。

現在の屋根がえんじ色の太閤餅の辺りが移転後の神洲館のあった場所になります。

出典:平成27年 皇學館大学文学部櫻井治男研究室 伊勢神宮の御師廃止と参宮者の関係性再構築に関する調査研究、昭和61年 国書刊行会発行 ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 伊勢二見小俣、wikipedia

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)