東海道中膝栗毛の中で弥次さん喜多さんが宿泊した藤屋は妙見町(みょうけんちょう、現・尾上町)にありましたが、明治の終わり頃に山田停車場通(現在の伊勢市駅前・外宮参道)に移転しました。正確な移転時期、経緯は分かりませんが、大正8年(1919年)鳳鳴社発行「伊勢参宮二見鳥羽朝熊岳案内」の旧国道の項に「藤屋は弥次喜多楼と称しまして近年まで尾上町の中程にございましたが、数年前、停車場通に移転しました」とあります。
明治40年(1907年)参宮鉄道株式会社運輸係発行「参宮案内」にある旅館料理店の画像です。
大正15年(1926年)敬神図書出版社発行「伊勢神宮誌」にある旅館・山田駅前の画像です。弥次喜多楼(藤屋)とあり、まだ宇仁館の別館にはなっておりません。
昭和7年(1932年)3月24日発行の伊勢朝報にある宇仁館の広告の画像です。この頃までには宇仁館の傘下に入ったか、買収されたと思われます。
昭和9年(1934年)以前に宇仁館(うにかん)から発行された「駅前 宇仁館別館藤屋」の絵はがきの画像です。この画像の建物は昭和9年2月に火事により全焼してしまいました。
昭和9年以降に宇仁館から発行された絵はがきセットのうちの「宇仁館別館 藤屋」の画像です。火事による全焼の後、再建された建物になります。藤屋が再建された後に宇仁館から発行された「神都」にある営業案内の藤屋の項には、「山田駅前右側三件目、近代的和洋折衷四層楼、別名・弥次喜多楼といふ。大小五十余室外に洋客室を有し、設備完整せる模範的ホテル」とあります。
再建された建物も昭和20年の戦災により焼失してしまい、その後「藤屋」は再再建されなかったようです。戦後には右隣りにあった松島館の辺りから藤屋の辺りにかけて道路が整備されました。
藤屋跡の現在の様子です。藤屋の建物は画像右側の道路上から若草堂にかけてあったと思われますが、正確な位置はわかりません。
出典: 大正8年 鳳鳴社発行 伊勢参宮二見鳥羽朝熊岳案内、 明治40年 参宮鉄道株式会社運輸係発行 参宮案内、 大正15年 敬神図書出版社発行 伊勢神宮誌、 昭和7年3月24日発行 伊勢朝報、昭和61年 国書刊行会発行 ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 伊勢二見小俣