間の山(あいのやま)とは外宮と内宮の間にある山という意味で、外宮側の尾部坂(おべざか)から内宮側の牛谷坂(うしたにざか)の間を指し、別名を長峰(ながみね)とも言いました。
東海道中膝栗毛の中で弥次さん喜多さん一行が宿泊した藤屋跡がある尾上町(おのえちょう)のバス停がある辺りから登り坂になりますが、この坂を尾部坂と言います。間の山はこの尾部坂のことを指すこともあります。
尾部坂の中間辺りの右側に「間の山 お杉お玉」の石碑があります。「お杉お玉」とは江戸時代、全国に知らない人が居ないほど有名な女大道芸人の通称で参宮名物のひとつだったそうです。
この石碑の辺りにお杉お玉の興行小屋がありました。
いつの頃からか間の山に出て三味線を弾き鳴らしながら悲しい調子の「間の山節」を唄い、往来する参宮人から銭を投げてもらっていましたが、評判になった後には小屋を建て、歌も何を言っているのか判らないような早口な歌になり、参宮人が面白がって彼女らの顔をめがけて銭を投げつけ、それをうまくかわしたり、三味線の撥で受け止めたりする興行に変わっていきました。弥次さん喜多さんもお杉お玉に銭を投げつけましたが、顔に当てることはできませんでした。
「お杉お玉」は二人組とは限らず、同時に何組もいたようです。「間の山のお杉お玉」を題材にした川柳には「相の山神道流で銭を投げ」や「面白く銭の無くなる相の山」などがあります。ちなみに牛谷坂には「お鶴お市」がいたそうです。
大正2年(1913年)岡田商店発行の両宮案内にあるお杉お玉の画像です。この画像にはお杉お玉は5人います。
江戸時代に人気を博したお杉お玉も明治時代に一度姿が消えましたが、それを惜しんだ町民が願い出て興行師としての鑑札を受けて見世物小屋を作って復活しました。しかしながら自動車、電車に客足を奪われ、古市の衰退と運命を共にして大正15年(1926年)4月の興行が最後になりました。
出典:昭和46年 三重県郷土資料刊行会発行 野村可通著 伊勢古市考、 昭和51年 三重県郷土資料刊行会発行 野村可通著 伊勢の古市あれこれ、昭和56年 古川書店発行 中川竫梵著 伊勢古市の文学と歴史、大正2年 岡田商店発行 両宮案内