江戸時代から昭和初期にかけてお伊勢参りの際に精進落としの場として繁栄した古市(ふるいち)を伊勢音頭・古市踊りの歴史と代表的妓楼ごとにあった伊勢音頭の歌詞を外宮側から順に現在の画像を交えながらご紹介していきます。
東海道中膝栗毛の中で弥次さん喜多さんも遊んだ千束屋跡。参宮街道(古市街道)の古市の信号交差点手前右側にある駐車場辺りになります。千束屋には50畳敷の伊勢音頭を踊る座敷「鼓の間(つづみのま)」があり、襖や欄間、什器、茶器に至るまで全て鼓の絵が描かれており全国に知れ渡っていたそうです。千束屋音頭歌として「身揚枕(みあがりまくら)」がありました。
江戸時代にお伊勢参りの参拝客の増加し、参拝後に精進落としをする人々が増加したことにより、古市(ふるいち)には遊郭が増え歓楽街として発達しました。江戸時代末には江戸幕府非公認ながら、江戸の吉原、京都の島原と並んで三大遊郭、さらに大阪の新町、長崎の丸山を加えて五大遊郭のひとつに数えられました。
「花扇(はなおうぎ)」が音頭歌であった扇屋(おうぎや)跡。扇屋のあった場所は天明2年(1782年)の古市街並図によりますと備前屋の2軒外宮寄りなり、大正初期に移転してきた高木薬店さんか、大正初年まで妓楼・谷村屋だったその右隣りになると思われます。
享保(きょうほう、1716年~1736年)ころに吹上町世木世古(ふきあげちょう せぎせこ)に住んでいた医師・奥山桃雲によって従来の盆踊りの歌を改作し川崎音頭が作られ、名古屋の西小路などに遊郭が新設された際に中之地蔵町(なかのじぞうちょう、現在の中之町)の佐々木屋・千歳屋、古市の備前屋・宇佐美屋・中村屋などが名古屋に出店を構え、川崎音頭を座敷に出したところ評判になり、名古屋新地停止後の元文(げんぶん、1736年~1741年)ころに古市でも座敷に出すようになりました。
寛政(かんせい、1789年~1801年)ころには川崎音頭を伊勢音頭と称し、古市の遊郭では伊勢音頭に合わせ遊女たちに座敷で踊らせることで有名になっていたそうです。
古市の代表的妓楼であった備前屋跡。備前屋の伊勢音頭歌として「さくら襖(ふすま)」がありました。
備前屋跡の石標の画像です。テニスコート前バス停付近から石標を越え、小道までが備前屋跡なります。
大正7年以降に発行された絵画研究会印刷の絵はがき「伊勢音頭」の画像です。提灯や女性の着物に源氏車の紋が施されていますので備前屋の伊勢音頭(古市踊り)の様子とわかります。
伊勢音頭は時代とともに変化・派生し、歌詞も新しいものが続々と作られ最盛期には300曲余りがあったそうで、刊行年は不明ですが古市の伊勢音頭の歌詞を集めた「伊勢音頭二見真砂」という音曲集には80曲余りが収められているそうです。
明治35年(1902年)10月に博文館から発行された「名古屋と伊勢」にある「伊勢音頭」の画像です。中央の大きな画像は額縁に菊寿○○とありますので杉本屋の伊勢音頭(古市踊り)になります。
杉本屋は小道を隔てて備前屋の左隣りにあり、音頭歌は「菊の寿(きくのことぶき)」でありました。
「伊勢音頭」の画像のうち古市の遊女辺りを拡大した画像です。「備前屋 おさだ」さん、「杉本屋 國子」さんは当時の売れっ子だったのでしょう。
昭和初期に発行された絵画研究会印刷の絵はがきの一部「古市のおもかげ今は限られたれど高層の旅館ありて」と説明書きのある画像です。遊女らしき女性が数名写っていて当時の古市の様子がよくわかる画像になります。場所は特定できないのですが、電信柱に両口屋の看板が見えます。
次回、伊勢音頭②に続きます。
出典:明治35年 博文館発行 名古屋と伊勢、昭和8年 中田政吉発行 茶話みやげ 伊勢山田、昭和46年 三重県郷土資料刊行会発行 野村可通著 伊勢古市考、昭和56年 古川書店発行 中川竫梵著 伊勢古市の文学と歴史、wikipedia