文化3年(1806年)に刊行された十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の滑稽本「東海道中膝栗毛 五編」には弥次さん喜多さんのお伊勢参りが描かれております。そこには当時実在した建物や人物が登場し、今回は弥次さん喜多さんが宿泊した妙見町(現在の尾上町)にあった旅籠「藤屋(ふじや)」跡と「藤屋」の亭主の案内で遊びに行った古市の妓楼「千束屋(ちづかや)」跡をご紹介します。
外宮から古市参宮街道を進み、小田橋(おだのはし)を渡ると尾上町(おのえちょう)に入ります。江戸時代までは尾上町は妙見町(みょうけんちょう)と言いました。小田橋を渡ると左側に小田橋橋詰公園があり色々な案内板があります。アイキャッチ画像は公園にある案内板の「千束屋で遊ぶ弥次喜多一行」の画像になります。
しばらく進みますと少し左にカーブし、少し進んで右にカーブします。右カーブの途中右側に尾上町のバス停があり、その右横に隠岡山寿巌院(いんこうざん じゅがんいん)の入口の門柱があります。門柱の右側(画像右半分)辺りに弥次さん喜多さんが宿泊した藤屋がありました。
明星村(現・多気郡明和町)の茶店で上方者と道連れになった弥次喜多一行は山田の町に入りました。ある茶店で江戸の太々講(だいだいこう、伊勢講)のグループと一緒になってご馳走を食べて大騒ぎをしているところに上方の太々講グループも加わりました。
帰るときには二組の太々講が入り乱れ、弥次さんを乗せた駕籠は上方の太々講グループに紛れてしまい、上方者からバカ扱いされたりして、ほうほうの体で退散してきます。
妙見町を目指して広小路(北御門)まで来るも宿名をど忘れしてしまい、藤屋を探すために珍問答を繰り返し、くたびれ果てて偶然に一服したところが藤屋でした。
無事に再会した弥次喜多一行は、藤屋の亭主の案内で千束屋(ちづかや)に行くことになります。千束屋には50畳敷の座敷・鼓の間(つづみのま)があり、この部屋の襖や欄間、什器・茶器・煙草盆に至るまで、全てに鼓の絵が描かれていて全国に知れ渡っていました。
目当ての遊女を上方者にとられて気分を悪くし「もう帰る」と言い出した弥次さんでしたが遊んでいくこととなり、別座敷へ連れられていきます。見栄っ張りな弥次さんは垢じみて汚れた褌(ふんどし)が気になり、見られたら恥の上塗りだと、そっとはずして窓の格子から庭に放り投げ、これで安心と座敷へ行きました。翌朝、庭の松に浴衣が掛かっていると大騒ぎになっていたところ、弥次さんはあれは褌だと口を滑らせ、弥次さんのものだとばれてしまい笑いものになってしまいます。
藤屋跡から尾部坂(おべさか)を上り、500mほど進みますと古市の交差点の信号が見えてきます。
信号交差点手前の右側の駐車場の辺りが千束屋跡になります。千束屋は文化5年(1808年)に妓楼を廃業して貸衣装屋に転じ、大正中期まで営業していたそうです。
次回、藤屋②に続きます。
出典:昭和10年 三教書院発行 東海道中膝栗毛 下、 昭和56年 古川書店発行 中川竫梵著 伊勢古市の文学と歴史 、昭和58年 古川書店発行 中川竫梵著 増補伊勢の文学と歴史の散歩