町並みの今昔 旅館編

伊勢古市 油屋旅館跡③ 大林寺 おこん斎の比翼塚 四代目板東彦三郎 

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新年あけましておめでとうございます。今年も「ブラお伊勢」をよろしくお願いいたします。

前回の伊勢古市 油屋旅館跡②からの続きになります。アイキャッチ画像は大林寺の本堂の画像です。

昭和初期に油屋から発行された8枚組絵はがきセットのうち「梅ノ間」を拡大した画像です。絵はがきに登場するくらい当時の看板の部屋だったと思われます。

2022年12月28日撮影

近鉄線上の陸橋の南詰付近から撮影した油屋旅館跡一帯の画像です。2019年の記事、油屋本店跡では削られた斜面は土手になっていて草が生い茂っていましたが、現在はコンクリートで補強されています。

2019年 陸橋北詰(石柱付近)から撮影

11月以降、画像中央奥の大林寺境内の斜面に生えている木々が剪定されので本堂の屋根がよく見えるようになりました。昭和51年(1976年)に三重県郷土資料刊行会から発行された野村可通著「伊勢の古市夜話」の86ページにある明治四十年頃大林寺々庭略図によりますと「梅ノ間」は大林寺に隣接するところにあったので、画像右側に3軒並んでいる一般住宅の一番左側辺りにあったと思われます。

油屋跡の石柱付近の草も刈られてきれいになっています。

石柱から30mほど北に大林寺へ入る路地があります。車がギリギリ通れる道幅しかありません。

路地に入り、少し進と大林寺が見えてきます。左側に剪定された木々が見えますので線路との位置関係がわかりますね。

大林寺は高照山大林寺と号し、寛永2年(1625年)に僧・真空が創建したと伝えられます。初め岳道(古市東裏)に建てられ、元禄4年(1691年)に現在の場所(西裏)に移建されました。

本堂の左側にある「お紺・斎の比翼塚」の画像です。左側が文政12年(1829年)に四代目板東彦三郎によって建てられたおこんの墓碑で右側が昭和4年(1929年)に二代目實川延若(じつかわ えんじゃく)を発起として建てられた孫福斎(まごふく いつき)の墓碑になります。

おこんは油屋騒動から33年後の文政12年に49歳で亡くなりました。

三代歌川豊国画「伊勢音頭恋寝刃 油屋おこん」の画像です。大坂で人気を博した近松徳三の「伊勢音頭恋寝刃」はその後も各地で上演されてどこも大入り満員を続け、毎年の夏の出し物として定着しました。

これほどの人気だった「伊勢音頭恋寝刃」も古市ではなかなか上演されませんでした。古市での上演はおこんが亡くなってから三ヶ月後に四代目板東彦三郎らによって、やっと上演されました。このときの芸題は地元の人々の感情を考慮してか「切宝年菜種実(きりほうねんなたねのみ)」でありました。この上演が大当たりとなり、気を良くした彦三郎がおこんの供養をして大林寺に墓碑を建て菩提を弔いました。

三代歌川豊国画「伊勢音頭恋寝刃 福岡貢」の画像です。油屋騒動を起こした宇治浦田に住む医者・孫福斎は「伊勢音頭恋寝刃」では主人公の御師・福岡貢(ふくおか みつぎ)に仕立てられています。

昭和4年8月に二代目實川延若が第二世界館(大正5年本町から一之木に移転、昭和4年に収容人数1700余名の歌舞伎興行もできるように舞台を設けた三重県最大の劇場に改築、昭和20年に宇治山田空襲により焼失。その後再建し平成15年閉館)に来演した際に大林寺世話人の有志が延若に発起を依頼したものでありました。

昭和4年に孫福斎の墓碑を建て台石を作り「おこん斎の比翼塚」と命名されたのは、四代目板東彦三郎がお紺の墓碑を建立してからちょうど100年の節目ということや大林寺の住職の交代と庫裏(くり)の移築、世界館の大改築など色々な思惑があったのでしょう。

出典:昭和51年 三重県郷土資料刊行会発行 野村可通著 伊勢の古市夜話、昭和56年 古川書店発行 中川竫梵著 伊勢古市の文学と歴史、wikipedia

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