町並みの今昔 鳥羽編

鳥羽日和山② 見晴台 方位石 幸せの鐘 海越の松

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鳥羽日和山①の続きになります。前回は遊歩道の分岐点から広楽園方面をご紹介しましたが、今回は見晴台(展望台)方面をご紹介したいと思います。

広楽園方面は真っ直ぐに進みましたが、見晴台方面は右に進みます。

少し進みますと、また分岐がありますので右側のコンクリート製の階段を登ります。

数十メートル、階段が続きます。

登り続けますと見晴台が見えてきます。

昭和10年ころに撮影されたと思われる「伊勢全集」のうち「鳥羽湾頭に聳立(しょうりつ)する眺望絶佳の日和山頂上に立つは海越の松」の画像です。前の画像の階段とこの画像の階段は同一になります。

戦前には巨大な松の大木「海越の松(みこしのまつ)」が聳え、茶屋が建ち、現在では考えられないほど賑やかだったようです。「海越の松」は別名を天神松ともいい、当時樹齢400年とも云われ、昭和40年代前半ころに枯れてしまったようです。

登り切りますと、平坦な見晴台の中心には方位石(ほういしゃく、ほういせき)がありその左隣りに説明看板があります。看板の左奥に松尾芭蕉の句碑が建っております。

方位石は八角柱の上に円形の方位盤が乗っていて高さ65cm、円の直径は48cmになります。御影石製で柱には文政5年(1822年)壬午(みずのえうま)2月と刻まれています。明治中期までの帆船時代には鳥羽は風待ち港として栄え、船頭がここで明日の天気を予測したと伝えられています。

大正2年(1913年)に二見浦保勝会から発行された二見名勝誌にある「志摩鳥羽港ノ絶景ヲ一眺ニ収ム 日和山 錦浦館支店」の画像です。展望台にあった茶屋はこの当時は錦浦館(きんぽかん)の支店だったようです。画像右下には方位石が写っています。

昭和初期に撮影されたと思われる絵はがき「日和山頂上 海越の松」の画像です。大正初期よりも茶屋のテラスが立派になっています。画像の右下に方位石が写っていて、海越の松の左脇に芭蕉の句碑が写って現在と同じ位置にあるように思われますが、戦前と現在が全く同じ位置かどうかは不明です。

昭和10年代に撮影されたと思われる絵はがき「日和山より諸島嶼港口に羅列せる風光壮麗なる鳥羽港の展望」の画像です。島嶼(とうしょ)の「島」は大きな島、「嶼(しま)」は小さな島のことで、大小のしまじまという意味になります。

絵はがきと同じ方向を撮影した現在の画像です。茶屋はなくなり、幸せの鐘が設置されていますが、柵の一部が崖崩れを起こしていて少し危険な状態です。鐘を鳴らすためのヒモは撤去されていますので、鐘を鳴らすこともできません。

鳥羽日和山③に続きます。

出典:鳥羽市観光課ホームページ、鳥羽デジタルアーカイブス、大正2年 二見浦保勝会発行 二見名勝誌、昭和4年 志摩国史研究会発行 志摩巡り

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