町並みの今昔 鳥羽編

鳥羽日和山① 広楽園 鳥羽の歴史 志摩国答志郡 

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前回、日和山エレベーター跡をご紹介しましたが、今回は道順を含めましてその日和山をご紹介します。日和山(ひよりやま)は帆船時代に船乗りが天候を予測するために利用した山になり、日本各地の港町に80ヶ所あるそうです。

JR鳥羽駅を出まして西に100mほど進みますと左側に4階建ての鳥羽駅西駐車場があり、その左脇に遊歩道の入口があります。

画像奥にみえるのが「きらら橋」

300mほど坂道を登り続けますと、案内看板が見えてきて見晴台(展望台)方面と広楽園方面に分かれます。勾配はそれほど急ではないのですが、筆者は普段運動不足気味なので体に堪えます(^^;)。

案内看板の画像です。まずはエレベーター跡のある広楽園方面を目指します。そのまま看板を通りすぎ、「きらら橋」をくぐり抜けます。

しばらく進みますと右側に「記念碑の丘」への階段があります。階段を登りますと・・・。

明治24年(1891年)、大正4年(1915年)には時の皇太子がこの日和山を御登臨されていて、そのときの記念碑が建っています。

広楽園広場

記念碑の丘から、さらに進みますと広楽園広場にでます。ここまでの遊歩道沿いや広楽園にもたくさんの石碑が建っています。

広楽園からの景色です。画像中央が鳥羽マリンターミナルになり定期船や遊覧船の乗り場があります。その奥の大きな島が答志島(とうしじま)になり、鳥羽市一帯はかつては答志郡(とうしぐん)でありました。

鳥羽は明治4年(1871年)の廃藩置県までは志摩国答志郡(とうしぐん)であり、明治29年(1896年)4月1日より志摩郡鳥羽町になり、鳥羽市が発足したのは昭和29年(1954年)であります。

当時の答志郡は現在の鳥羽市と現在の志摩市の一部である的矢・安乗・国府・磯部まででありました。答志郡以外の地域が英虞郡(あごぐん)で、天正10年(1582年)までは現在の度会郡南伊勢町・大紀町の錦・北牟婁郡紀北町・尾鷲市までが志摩国英虞郡に含まれていました。戦国時代の紀伊新宮城主・堀内氏善と伊勢国司・北畠信雄との取り決めが無ければ、尾鷲市は伊勢志摩の一部になっていたのかも知れませんね。

次回、日和山②に続きます。

出典:昭和4年 志摩国史研究会発行 志摩巡り、wikipedia

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