お城

鳥羽城跡① 九鬼嘉隆

鳥羽城(とばじょう)は志摩国答志郡鳥羽(とうしぐん とば)にあった城であり、鳥羽藩の藩庁が置かれていました。現在は鳥羽市鳥羽となっており、鳥羽水族館から鳥羽市役所・NTT辺り一帯が城域跡で中心にある丘が鳥羽城跡になります。

鳥羽市役所の駐車場に車を止めると、早速「家老屋敷跡」の石垣が目に入ります。

階段の横には案内図の看板があります。

石垣の上には鳥羽幼稚園跡の建物が遺されています。昭和の香りがしますね~。

さらに階段を上ると城山公園に辿り着きます。公園内には2018年8月に設置された立派なオブジェがあります。

城山公園から鳥羽水族館側に降りますと、整備された三の丸広場があります。広場の中に案内看板やパンフレットの入ったボックスが設置されております。

鳥羽の地はもともと志摩十三地頭の中心であった橘(たちばな)氏が領し、この地に居館を築いて鳥羽殿と呼ばれていたそうです。十三地頭のうち岩倉(いわくら)と波切(なきり)を領していたのが九鬼(くき)氏でありました。6代当主・浄隆(きよたか)のとき、永禄3年(1560年)に伊勢国司・北畠(きたばたけ)氏の援助を得た他の十二地頭に攻められ敗北し、浄隆の子・澄隆(すみたか)や弟・嘉隆(よしたか)は逃亡し、その後、織田信長に仕えました。

信長が伊勢国に侵攻して北畠氏に次男・信雄(のぶかつ)を養子として送り込み勢力が強まると、嘉隆も勢力を盛り返して志摩国の領有を認められるようになりました。天正2年(1574年)の伊勢長島の一向一揆の鎮圧や天正6年(1578年)の第2次木津川口の戦いなどで水軍を率いて活躍しました。このときの当主は甥・澄隆であったようです。

天正10年(1582年)、信長が本能寺の変で死去した後は信雄に仕えましたが、天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いの際に嘉隆は羽柴秀吉陣営に寝返りました。この戦いは3月に始まり11月に終結しましたが、甥で当主の澄隆が同年11月に死去しているのは大変興味深いですね。このときも「家名存続」のために嘉隆が羽柴陣営、澄隆が織田・徳川陣営に分かれ、不利な講話を受け入れた側の澄隆が自害したのでしょうか?はたまた嘉隆が己の野望のために甥を殺害し家督を奪ったのでしょうか?当時は勝者が歴史を改竄し正当化してしまってた時代なので真実は闇の中ですね。

澄隆が死去して九鬼氏8代当主となった嘉隆は、天正13年(1585年)には従五位下・大隅守(じゅごいのげ・おおすみのかみ)を叙位・任官し、鳥羽の地を本拠地と定め、鳥羽城の築城に着手しました。文禄3年(1594年)に竣工したそうです。

天正15年(1587年)の九州平定、天正18年(1590年)の小田原征伐、文禄元年(1592年)の文禄の役でも活躍し、慶長2年(1597年)に家督を子の守隆(もりたか)に譲って隠居しました。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると「家名存続」のために嘉隆は西軍に味方し、守隆は東軍に味方しました。関ヶ原の本戦で東軍が勝利すると、嘉隆は答志島(とうしじま)に逃亡し、その地で切腹して果てたそうです。

三の丸広場にある案内看板のひとつ、「水軍の将 九鬼嘉隆」です。

引用元:鳥羽市教育委員会発行 鳥羽城跡、wikipedia

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