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鳥羽城跡② 鳥羽藩主 九鬼守隆 九鬼久隆

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鳥羽城跡①からの続きです。三の丸広場から本丸跡を見上げると階段状の石垣があります。鳥羽市教育委員会発行の鳥羽城跡のパンフレットにはこの石垣は紹介されていませんので、後世に造られた石垣なのでしょうか?

本丸西側の石垣です。こちらの石垣はパンフレットに掲載されております。

石垣の前に設置されている看板です。

本丸跡です。平成21年(2009年)まで鳥羽小学校の運動場として使用されていたため平坦に削られていますが、この場所に3層の天守と本丸御殿があったそうです。

初代鳥羽藩主である九鬼守隆(くき もりたか)は天正元年(1573年)に九鬼嘉隆の次男として生まれました。母はかつて鳥羽を支配していた橘宗忠(たちばな むねただ)の妹でありました。

慶長5年(1600年)、守隆が徳川家康の会津征伐従軍中に、石田三成が挙兵して関ヶ原の戦いが勃発し、父・嘉隆は西軍に味方しました。徳川家康の東軍が勝利し、守隆は家康に父・嘉隆の助命を嘆願し認められ使者を派遣するも間に合わず、嘉隆は自害してしまいました。

その後、鳥羽藩の初代藩主として5万6000石を領し、九鬼水軍を率いて大阪の陣を戦い、江戸城の築城時は木材や石材を海上輸送して幕府に協力しました。寛永9年(1632年)に守隆が死去すると五男・久隆(ひさたか)と三男・隆季(たかすえ)の間で家督争いが起き、幕府の命令で久隆が跡を継ぎましたが、翌寛永10年(1633年)に2万石を削られたうえ摂津三田(せっつ・さんだ)に移封され、隆季は丹波綾部(たんば・あやべ)に2万石を与えられ綾部藩を立藩しましたが、九鬼氏による鳥羽の支配は終わってしまいました。

本丸跡から鳥羽湾を見た眺めです。九鬼嘉隆や守隆も毎日この風景を眺めていたのでしょう。

本丸跡を南端まで進むと、眼下に廃墟が!! 鳥羽小学校の校舎として使われていた建物です。運動場より校舎の方が低い位置にあるという珍百景にでてきそうな構造?ですね。

南西側にある階段を降りて校舎の正面から撮影。

校門の手前にある看板です。昭和4年(1929年)に校舎が建設されたとあります。御木本幸吉氏が出資し、三重県で最初に建設された鉄筋コンクリート造りの校舎だそうです。

田丸城跡にも玉城町役場・玉城中学校・田丸保育所などが建設されましたが、廃藩置県後の城跡というのは町の中心部にある便利な場所で、後々歴史的価値が上がることなど当時の人々は想像もしていなかったのでしょう。

出典:鳥羽市教育委員会発行 鳥羽城跡、wikipedia

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