町並みの今昔 旅館編

伊勢古市 津の国屋旅館跡 河井太夫 津乃国屋 真誠講社

今回は戦前に古市に存在した津の国屋旅館を紹介します。

明治26年(1893年)に三重日報社から発行された「三重県下商工人名録」の216Pから217Pの画像です。津の国屋の開業時期は不明なのですが、画像の一番左側に「旅館 津の国屋富三郎」とありますので、この時期までには開業していたことになります。

明治28年(1895年)に発行された「三都 改正 真誠講社」の表紙の画像です。

「三都 改正 真誠講社」の尾上町から宇治橋前の項の画像です。古市の項に「津の国屋富三郎」とあります。この頃、津の国屋は古市では両口屋と共に真誠講社に加盟していました。

大正後期から昭和初期に発行された「豊橋 豊文社」印刷の3枚組絵はがきセット「伊勢山田古市 河井太夫 津の国屋」の畳紙の画像です。三重県下商工人名録同様、蛇の目の紋を使用しています。「河井太夫(かわい だゆう)」は田中中世古町(現在の伊勢市本町)の外宮御師、田中河井大夫のことで安永6年(1777年)当時で、大和・河内国・紀伊・近江を中心に17500体余りのお札を配布していました。御師制度が廃止された明治4年(1871年)時点で田中河井大夫は存在していなかったようで、どのような経緯で津の国屋が「河井太夫」の御師銘を使用していたかは不明です。

絵はがきセットのうち「伊勢山田古市 津の国屋」の画像です。古市街道側から撮影した旅館全景になります。屋根に掲げられている看板は「旅館 津乃國屋」となっていますね。

現在の津の国屋旅館跡の画像です。現在は一般住宅になっております。

津の国屋跡の3軒北側(外宮側)は元妓楼「可祝楼(かしくろう)」で現在は営業してませんが「ニュージョイスかしく」になります。大正12年(1923年)時点では間に清月楼、岩出屋鰻店があり、昭和3年(1928年)時点で清月楼は無くなっています。

津の国屋跡の2軒南側(内宮側)は東海道中膝栗毛で弥次さん喜多さんが遊んだ千束屋(ちづかや)がありました。現在は駐車場になっています。昭和3年時点で津の国屋と千束屋の間には錦水楼がありました。

絵はがきセットのうち「三層楼」「客室」の画像です。街道沿いは2階建てですが、裏手の方は下り斜面になっているので三層楼になっていました。尾根を通っている古市街道沿いの建物の特徴でもあります。

絵はがきセットのうち「伊勢古市 びぜんや 伊勢おんど」の画像です。大正年間に経営が岡本己之助氏(備前屋を継承した角長楼、岡本種松氏舎弟)にかわったようで(伊勢古市考 P149~151)、津の国屋に泊まった参拝客は備前屋に遊びにいくという連携ができていたのでしょう。

昭和7年(1932年)ころに発行された、絵画研究会印刷工芸社印刷の「神都旅館のしるべ」に掲載されている「聯盟旅館のしるべ」の画像です。当時の各旅館の客室数と畳数が記載されています。津の国屋は客室数24で187畳でありました。

昭和7年に宇治山田市役所から発行されたパンフレット「神都案内」に追加で糊付けされている「宇治山田旅館連盟 御旅館案内」の画像です。こちらの一覧には旅館の希望する人員が記載されていて、津の国屋は団体だと60名まで収容できたようです。

津の国屋がいつまで営業していたかは不明ですが、昭和23年(1948年)に宇治山田商工会議所から発行された「伊勢志摩商工大鑑」の旅館の項に津の国屋の名称は確認できません。太平洋戦争末期の宇治山田空襲により焼失し、そのまま廃業したのではないかと思われます。

出典:明治26年 三重日報社発行 三重県下商工人名録、昭和46年 三重県郷土資料刊行会発行 野村可通著 伊勢古市考、昭和51年 三重県郷土資料刊行会発行 野村可通著 伊勢の古市のあれこれ、昭和61年 皇學館大學出版部発行 神宮御師資料 外宮篇四、wikipedia

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)