町並みの今昔 旅館編

旅館 角屋甚平 角甚 宇治橋西詰め 春秋楼

記事内に商品プロモーションを含む場合があります

以前に御師 沢瀉大夫邸跡②でもご紹介した、明治38年(1905年)11月に博文館から発行された「伊勢行幸写真帖」に掲載されている「内宮神苑外の宇治橋」の画像です。

この画像には網受けの姿が写っているので撮影は明治37年(1904年)1月以前となり、右側に一部だけ写っている建物が「角甚」になります。今回はこの角甚についてご紹介します。

文久元年(1861年)に作製された「宇治郷之図」の宇治橋付近から内宮の一の鳥居付近を拡大した画像です。

図のように明治22年(1889年)の神苑整備以前には宇治橋を渡った辺りから火除け橋まで民家が建ち並んでいました。

さらに拡大した画像です。赤い矢印の先に「八束甚平」とあり、これが旅館「角屋甚平」になります。角屋甚平は明和元年(1764年)に旅館業を始め、明治34年時点で5代130余年になり、略称である「角甚」は遠くまで知れ渡っていたそうです。

明治19年(1886年)に古市の備前屋主人・太田小三郎が中心となり神苑会(しんえんかい)が発足し、内宮の宇治橋以内の家屋51戸を買い上げて神苑を創設することとなります。

角屋甚平は明治22年の立退き後は宇治橋西詰めの青い矢印の先「うどんや助市」の場所に移転しました。

宇治橋を渡った辺りの画像です。この辺りに明治22年に移転するまでの角屋甚平がありました。

明治40年(1907年)2月15日のスタンプ印のある星野屋発行の絵はがき「伊勢名所 宇治橋」の画像です。この画像では看板に「角甚」と書かれているのがわかりますね。

移転後の角屋甚平は客室数を増やして春秋楼と号しました。五十鈴川を隔てて神苑全体を見渡せる眺望は絶景で春秋楼の銘に相応しいものでした。

明治40年3月以前に発行された絵はがき「伊勢宇治橋」の画像です。画像の右側に角屋の建物とその手前に沢瀉大夫の看板が見えます。

角屋の建物を拡大した画像です。辛うじて「○○○○かとや」と書かれた看板が見えます。

現在の宇治橋横にある衛士見張所(えしみはりじょ)の画像です。この辺りにに角屋甚平はありました。

明治42年(1909年)10月17日のスタンプ印のある絵はがき「内宮宇治橋渡初式之実景」の画像です。実際の渡始式(わたりはじめしき)は明治42年3月26日に執り行われました(出典:明治四十二年式年遷宮史 111p)。この画像には角屋甚平の建物はありません。

角屋甚平は明治40年に今在家町字東賀集に移転しました。

現在の内宮前のA4駐車場の画像です。駐車場の奥に少し見えるのが角屋甚平の移転先で、現在その場所は赤福さん所有の杉風荘(さんぷうそう)になっています。

出典:明治34年 三谷敏一発行 神都名家集、明治38年 博文館発行 伊勢行幸写真帖、明治43年 川原由松発行 明治四十二年 式年遷宮史、平成9年 伊勢文化会議所発行 宇治郷之図、平成28年3月 久居一志地区医師会発行 飯田良樹著 2軒の角屋と神苑会

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)