町並みの今昔 旅館編

備前屋跡② 伊勢古市遊郭 源氏車 太田小三郎 神苑会

記事内に商品プロモーションを含む場合があります

以前に備前屋跡①の記事を書きましたが、その後入手した絵はがき等を含め今回、備前屋跡②として改めてご紹介したいと思います。

絵はがきセット「御ゑは可記 伊勢古市 牛車楼 びぜんや」の畳紙の画像です。「源氏車(げんじくるま)」の定紋がバランス良く配置されています。

絵はがきセットのうち、「伊勢古市 びぜんや櫻間」の画像です。

絵はがきセットのうち、「伊勢古市びぜんや庭園(其一)」画像です。備前屋は伊勢街道(古市街道)沿いの斜面にあったので敷地に高低差が有り、複数の渡り廊下で各建物が結ばれていたと思われます。画像左側の渡り廊下の手摺り(欄干)には源氏車が施されてます。

絵はがきセットのうち、「伊勢古市びぜんや 廊下」の画像です。庭園(其一)に写る渡り廊下の上から撮影された画像だと思われます。絵はがきセットには「庭園其二」もあったと思われますが、手元にはありません。

備前屋跡①でもご紹介した「伊勢古市びぜんや全景」の画像です。北側(外宮側)から撮影した全景画像になります。

南側(内宮側)から撮影した「伊勢古市びぜんや全景」の画像です。

2枚の全景画像から、備前屋は伊勢街道(古市街道)沿いに切妻妻入りの大きな建物が2棟並び、その北側(外宮側)に源氏車を施した塀がありました。

2枚目の「びぜんや全景」と同じ角度で撮影した現在の画像です。画像奥が外宮方面になります。

備前屋の主人・太田氏は明治5年(1872年)に養嗣子として小三郎を迎えました。小三郎は弘化3年(1846年)に豊前国英彦山(ひこさん)の執行職・鷹羽寿一郎の三男として生まれ、明治4年の明治政府による御師制度廃止の翌年に養嗣子になりましたが、詳しい経緯は不明です。

当時の備前屋は伊勢音頭で繁昌はしていましたが累代の負債が嵩んでいました。小三郎が備前屋に入るとわずか十余年で負債を皆済したということです。

備前屋跡に建つ石標の画像です。

家業を立ち直らせた小三郎は神苑会を設立し、民家の立退きを伴う神苑整備、倉田山公園の整備などをし、実業家として参宮鉄道、宮川電気(後の合同電気)、山田銀行の設立など宇治山田(現在の伊勢市)の発展に大いに貢献しました。しかしながらその発展は備前屋のある古市の衰退を加速させることとなりました。

明治28年(1895年)6月11日発行の備前屋の領収書の画像です。踊里壱登?貳圓と書かれています。

明治廿○年6月28日の印がある刷り物「伊勢古市 踊之図」の画像です。上部にはいせおんどさくら襖の歌詞が書かれています。

明治32年1月1日に備前屋から送られた年賀状の実逓便(じっていびん)の画像です。明治30年11月に山田駅(現在の伊勢市駅)まで開業した参宮鉄道の時刻表が掲載されています。山田駅開業後1年余りの当時は亀山発、山田行きの汽車は1日9本でありました。

大正5年(1916年)に太田小三郎が没するとその嗣子・太田光熈は備前屋をあっさり廃業して、営業権並びに土地建物を角長楼主人・岡本氏に売却しました。

小三郎は経営能力に長けているだけでなく、地元出身ではなかったので、しがらみに縛られることなど無く事業設立や改革を断行できたのでしょう。倉田山の御幸道路沿いには神苑会碑や太田小三郎紀功碑が建立されています。

出典:昭和46年 三重県郷土資料刊行会発行 野村可通著 伊勢古市考、wikipedia

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)