伊勢市船江1丁目にある船江公園の画像です。公園入口の表札がある門の右側に「三重県立宇治山田中学校跡」と刻まれた石柱があります。今回は現在の三重県立宇治山田高等学校の前身校になる三重県立宇治山田中学校をご紹介します。
船江公園に設置されている三重県立宇治山田中学校跡の説明看板の画像です。
明治32年(1899年)3月に三重県立第四尋常中学校として設置され、同年4月に大世古町の旧御師・龍大夫邸の一部を校舎として利用し開校し、明治33年(1900年)1月に下中之郷町(現在の宮町)の大谷派本願寺説教場の一部をあてました。
同年4月に校舎新築落成に伴い、船江町字横枕に移転し、明治34年(1901年)に三重県立第四中学校に改称、大正8年(1919年)に三重県立宇治山田中学校に改称されました。
「三重県立宇治山田中学校 創立三十周年記念」のスタンプ印のある3枚組の絵はがきのうち「全校舎」・「現校舎」の画像です。創立30周年記念とあるので昭和4年(1929年)に発行された絵はがきセットだと思われます。
3枚組の絵はがきのうち歴代の校長の肖像と校歌が写った絵はがきの画像です。
3枚組の絵はがきのうち「運動場」・「講堂」の画像です。
三重県立第四中学校時代の大正4年(1915年)には、なんと第一回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)に山田中の通称で出場しています。
後身校である宇治山田高等学校も含めてそれ以来の出場はないので、今後もし出場すれば110年ぶり以上になります。平成4年(1992年)の第74回全国高等学校野球選手権では倉野投手(現在、福岡ソフトバンクホークスのコーチ)を擁して三重大会の決勝まで進みましたが、延長10回サヨナラ負けで77年ぶりの出場を逃しました。
昭和14年(1939年)7月に三重県立宇治山田中学校校友会から発行された「校友 第50号」に掲載されている「創立四十周年記念日表彰 十年以上勤続者」の画像です。創立40周年記念式は4月18日に行われています。
同じく「校友 第50号」に掲載されている「同日 土俵開式典」の画像です。創立40周年記念式では土俵開きも行われました。相撲部報によると土俵は鳥羽電気の寄付により中庭に造られました。鳥羽電気は当時の神戸製鋼所・鳥羽造船所電機制作工場(現在のシンフォニアテクノロジー)のことだと思われます。
同じく「校友 第50号」に掲載されている「同日 土俵開太刀若稽古」の画像です。太刀若は地元出身の高砂部屋所属の力士で、昭和13年5月場所で引退し、撮影当時は年寄り・常盤山を襲名していました。
昭和20年(1945年)7月29日未明の宇治山田空襲により校舎を焼失し、有絹小学校、早修小学校の一部を借用しました。
昭和23年(1948年)5月の学制改革により、宇治山田中学校と宇治山田高等女学校が統合されて三重県宇治山田高等学校が発足し、宇治山田高等女学校校舎に宇治山田中学校が合併移転しました。
国土地理院のホームページにある昭和27年(1952年)11月19日撮影の宇治山田中学校跡地辺りの空中写真です。
宇治山田中学校移転後の跡地には宇治山田市営・宇治山田球場が造られ、昭和23年から昭和25年にかけてはプロ野球の公式戦が開催され、地元の古老に伺ったところ当時10円か20円くらいの入場料だったそうです。
国土地理院のホームページにある昭和36年(1961年)8月21日撮影の宇治山田中学校跡地辺りの空中写真です
この画像では球場のスタンドはすでに解体されているようにも見えます。倉田山球場に移転ため宇治山田球場は解体され、その後は神戸製鋼所から分離して設立された神鋼電機(現・シンフォニアテクノロジー)の寮などになり、現在ではマンションや住宅地となっています。
出典:三重県立宇治山田高等学校ホームページ 学校の沿革、国土地理院ホームページ、鈴木商店記念館ホームページ 鳥羽造船所電気工場(現・シンフォニアテクノロジー)の歴史、いかやき甲子園氏 げんまつブログ 野球マニアその43、昭和14年 三重県立宇治山田中学校校友会発行 校友第50号、wikipedia