町並みの今昔 学校編

国史跡 旧豊宮崎文庫① お屋根桜 出口佳延 練塀

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今回は江戸時代初期に開設された国史跡「旧豊宮崎文庫(きゅう とよみやざき ぶんこ)」をご紹介します。

豊宮崎文庫は慶安元年(1648年)に伊勢神宮外宮(豊受大神宮)に隣接した豊宮崎(現在の伊勢市岡本3丁目、外宮の外周道路と御木本道路の間)に外宮権禰宜(ごんねぎ)・出口佳延らにより外宮祠官(しかん)、山田三方(ようださんぽう)らの協力のもとに創設されました。

寛文元年(1661年)に山田奉行・八木但馬守宗直(やぎ たじまのかみ むねなお)が幕府に請願し、豊宮崎文庫の永代修繕料の寄進を受けて以来、江戸時代を通じて外宮神職子弟の教育機関、図書館としての機能を果たしました。

上の画像は外宮の外周道路沿い(西側)にある門になります。幅4,6m、高さ4,4mで天明年間(1781~1788年)に改修されて今の形になったそうです。

御木本道路側(東側)にある説明看板の画像です。文庫は三方(南・北・西)が堀で囲まれ、内側には書庫・講堂などがありました。明治元年(1868年)に閉庫となり、講堂は度会府(わたらいふ)管轄の豊宮崎学校とされました。その後目まぐるしく宮崎郷学校、度会県師範学校に利用されるなど移転、廃止を繰り返し明治9年(1876年)からは講堂が神宮教院の山田説教所として使用されるも明治11年の火災によりこれも転出しました。

明治36年(1903年)2月に神洲堂から発行された「伊勢名所案内」に掲載されている「宮崎文庫」の画像です。石橋に欄干が設置されただけで現在でもそれ程変化してないように思われます。練塀(ねりべい)は延長36,4m、高さ1,8mで門と同じく天明年間に改修されて今の形になったそうです。

大正時代初期に発行された16枚組の絵はがきセット「参宮みやげ 神都の名所」のうち「宮崎文庫御屋根桜」の画像です。実際の絵はがきは左右が反転してしまっているので画像の中の文字が反転しています。豊宮崎文庫は単に宮崎文庫とも称しました。

当時の豊宮崎文庫の南側一帯は水田でありました。

絵はがき「宮崎文庫御屋根桜」と同じ角度から撮影した現在の画像です。戦後に南側の水田は全て埋め立てられ市街地となりお寺や住宅が建ち並んでいます。門の右側にあった豊宮崎文庫碑は左側に移設されています。

もう少し北側から撮影した画像です。三方にあった堀は西側だけ現在でも埋め立てられずに遺っています。堀の中から枝を支えられている木が伊勢市の天然記念物に指定されている「お屋根桜」になります。

昭和6年(1931年)から8年ころに絵画印刷工芸社から発行された写真集「最新版 伊勢神宮」に掲載されている「花の豊宮崎文庫」の画像です。桜が満開の時期に豊宮崎文庫の南側の堀辺りを撮影した画像になります。画像奥は外宮の社叢です。

現在の豊宮崎文庫の南側を撮影した画像です。車が止まっている辺りが南側の堀があった辺りだと思われます。

令和4年3月28日に撮影した画像です。画像左のお屋根桜がほぼ満開です。ソメイヨシノより早く咲き始め、花の色は白色になります。

次回、国史跡 旧豊宮崎文庫②に続きます。

出典:明治36年 神洲堂発行 伊勢名所案内、絵画印刷工芸社発行 最新版 伊勢神宮、令和4年3月 伊勢市文化政策課発行 旧豊宮崎文庫とオヤネザクラ、wikipedia

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