前回、御師 龍大夫邸跡①で御師制度が廃止された後の明治13年(1880年)までの動向をご紹介しましたが、その後の動向をご紹介いたします。
明治15年に旧檀家に対して、龍大夫を講元とする新たな講「永代大々御神楽講(えいたいだいだいおかぐらこう)」の結成を勧誘しました。新たな講の結成に次いで、明治17年には同じく旧御師である三日市大夫次郎とともに諸街道の信用ある旅館と提携する「御師講社」を設立しました。他にも一之木町の旧御師・杉木権太夫が御師講社に加盟していました。
上の画像は「製造所 伊勢山田豊川町 足立新平」とある御師講社の表紙の画像です。
御師講社の表紙の裏側にあたるページの画像です。
御師講社の1ページ目の画像です。
御師講社2ページ目の画像です。外宮・内宮合わせて記載されているのは龍大夫のみです。発行元は龍大夫になると思いますので他の宿が記載されていないのは当然ですね。
4ページ目のおばた、新茶屋、明星、さいくう、くしだ、の画像です。ページの下部に線路の図があり宮川駅までしか描かれてないので、この御師講社は明治26年(1893年)12月から明治30年(1897年)11月の間に発行されたものと推測されます。
明治27年7月に日清戦争が開戦すると、全国から戦勝祈願や兵士の無事健康の祈願のため多くの人が伊勢神宮を訪れ、宇治山田の町は好景気を迎えていたようです。
しかしながら、明治30年に龍大夫は旅館業を中止し、同年10月には同邸を私立淑徳学校に提供しました。明治32年4月には三重県立第四尋常中学校が同邸に開設されました。明治33年に第四尋常中学校が船江町に移転された後、龍大夫邸は北御門前で「神風館(じんぷうかん)」を経営していた大泉忠生氏に買収され、旅館として営業を再開しました。(出典:水野逸夫 廃止後の伊勢御師)
私立淑徳学校・三重県立第四尋常中学校ともに変遷を経て、現在の三重県立宇治山田高校となっています。
大正6年(1917年)には神風館の敷地、建物は全て神都製紙(しんとせいし・現在の大豊和紙工業さん)の買収するところとなり、以後和紙の製造に利用され現在に至ります。
上の画像は昭和5年(1930年)6月に敬神教育会から発行された「伊勢参宮」に掲載されている「神都製紙」の広告の画像です。門の左側にある建物は現在も伊勢和紙館として使われています。
伊勢和紙館の建物は少なくとも築90年は経っていることになりますね。
伊勢和紙館を敷地内から撮影した画像です。1階では色々な和紙製品が販売されております。
2階には龍大夫関係のものが展示されております。
壁に展示されている「龍大夫屋敷絵図」の画像です。
龍大夫家の明治時代の当主・龍重光氏は明治4年(1871年)に御師・春木大夫家で生まれ、2歳のときに龍大夫家の養嗣子になりました。明治24年(1891年)に慶應義塾大学に入学して福沢諭吉の門下に入り、後に早稲田専門学校に転校しました。
卒業後は実家に帰り、旧檀家の参籠所として旅館業を営みましたが、明治31年(1898年)には「永代大々御神楽講」とは異なる「教会本院」を立ち上げ、旧檀家以外も取り込もうとしたようです。しかし前述のように明治33年から34年ころに敷地・建物全てを大泉忠生氏に売却しました。
※明治30年に旅館業を中止したとの記述がありますが、旅館業を続けながら邸宅の一部を私立・淑徳学校に提供した可能性もあります(2023年3月7日加筆)
出典:明治34年 神都名家集 国立国会図書館デジタルコレクション、昭和5年 敬神教育会発行 伊勢参宮、平成29年 皇學館大学文学部桜井治男研究室 御師廃止後の旧御師と参宮者の関係性再構築、平成29年 谷口裕信 御師廃止後の龍大夫と旧配札地域、平成31年 水野逸夫 廃止後の伊勢御師