町並みの今昔 道路編

宮川・柳の渡し 上の渡し 度会橋 尾崎咢堂記念館 伊勢電鉄橋

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明治30年(1897年)に参宮鉄道が開通するまで伊勢参宮の交通手段は主に徒歩でありました。徒歩(陸路)で来る場合、山田(現在の伊勢市)に入るときに必ず渡らなければならないのが宮川(みやがわ)でありました。関東、名古屋、京都方面からは伊勢街道の桜の渡し(下の渡し)で、大坂・奈良・和歌山方面からは伊勢本街道の柳の渡し(上の渡し)で宮川を舟で渡り山田に入りました。

今回はその柳の渡し跡をご紹介します。

伊勢市川端町の旧伊勢本街道沿いには明治23年(1890年)の第一回帝国議会から昭和28年(1953年)まで総選挙で連続25回当選し、衆議院議員として63年間活躍した尾崎行雄(1858~1954年)を顕彰した尾崎咢堂記念館(おざき がくどう きねんかん)があります。

その尾崎咢堂記念館 の旧伊勢本街道沿いの敷地内に「旧跡 宮川・柳の渡し(上の渡し)」の案内看板が設置されております。

案内看板を拡大した画像です。その名のとおり青い柳が茂り、掛茶屋が軒を並べて賑わっていましたが、明治30年に参宮鉄道が山田停車場(現在の伊勢市駅)まで開通したことによりその役割を終えました。

案内看板から県道38号線(堤防道路)を挟んだ反対側が柳の渡し跡付近になります。桜の渡し跡のようなそれらしい遺構は見当たりません。

昭和6年(1931年)5月に有文堂書店から発行された「神都 宇治山田市街地図」の宮川付近画像です。画像です。明治44年(1911年)4月に柳の渡し跡に度会橋(わたらいばし、木橋)が架橋され、昭和5年(1930年)12月には伊勢電鉄が大神宮前駅まで開業し柳の渡し跡の川上100m程のところに鉄橋ができました。

昭和10年(1935年)9月に大阪毎日新聞から発行された「最新中部三縣大地圖」の宇治山田市の画像です。

宮川付近を拡大した画像です。昭和8年(1933年)5月に度会橋はコンクリート製の橋に架け替えられました。このときに現在の度会橋付近(150mほど、川下)に移動しました。

上の拡大地図には「度會橋」とその川下に「座合橋(度会橋の誤記?)」の2本の橋が描かれていますので、コンクリート製の新しい橋ができた後もしばらくは古い木橋は残されていたと思われます。

柳の渡し跡付近(旧度会橋跡)から現在の度会橋を撮影した画像です。昭和37年(1962年)2月には自動車の通行増加に対応するため度会橋は現在の位置に架け替えられ(2代目・度会橋の少し川下)、昭和62年(1987年)には4車線化されました。

柳の渡し跡から100mほど川上の伊勢電鉄橋跡の現在の画像です。下りの川端堤(かわばたつつみ)バス停の辺りになります。

伊勢電鉄②でもご紹介した絵はがき「伊勢電車宮川鉄橋」の画像です。昭和17年(1942年)8月に廃線になってしまいましたが、 現在の川端堤バス停辺りには立派な鉄橋が架かっていました。

柳の渡しの対岸(伊勢市街側)から撮影した画像です。対岸の中央付近の大きな建物が尾崎咢堂記念館です。川の中には旧度会橋の橋脚の木杭?のようなものが残っています。

出典:伊勢市ホームページ 宮川堤の歴史年表、 昭和6年 有文堂書店発行 神都宇治山田市街地図、 昭和10年 大阪毎日新聞発行 最新中部三縣大地圖、 平成28年 伊勢商工会議所 伊勢文化舎発行 検定お伊勢さん公式テキストブック

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