塩屋道②からの続きになります。今回は倉田山から古市までをご紹介します。
前回ご紹介した関西参宮鉄道案内記に綴じ込まれている「宇治山田市街実測図」に現在の施設名を書き加えた画像です。
塩屋道はぎゅーとらの辺りから倉田山に入りますが、この辺りは明治36年から明治39年の軌道線の開通(昭和36年に廃止)により道路が付け替えられたと推測されます。ぎゅーとらから倉田山中学校、伊勢高校、皇學館大学の敷地内を通り御幸通りの大鳥居の辺りを通っていました。大学敷地内の道路で塩屋道跡をそのまま使用している箇所もあるかも知れませんね。
古市側から大鳥居を撮影した画像です。大鳥居の柱の間の道路が御幸通りなります。大鳥居の高さは22、7mありますのでこの辺りは10mほど山を削って御幸通りを通してあります。かつての塩屋道はこの辺りでは「空中」を通っているのですね。
明治43年(1910年)頃に宇治山田市参事会から発行された「参宮便覧」にある「徴古館」の画像です。現在の大鳥居の辺りから徴古館方面を撮影していて徴古館、御幸通り共にまだ建設中のようです。画像の右端か切れてる辺りの「空中」を塩屋道は通っていました。
現在では樹木が生い茂り、徴古館も見えなくなっております。
修道小学校の東側にある路地の画像です。この細い路地が大鳥居方面に通じていた、かつての塩屋道ではないかと推測されます。
細い路地側から修道小学校方面を撮影した画像です。
修道小学校の南側にある正門の画像です。昭和51年に三重県郷土資料刊行会から発行された野村可通著「伊勢古市のあれこれ」の76Pから77Pにかけて塩屋道の記述があります。、昭和56年に古川書店から発行された中川竫梵著「伊勢古市の文学と歴史」の付録「天明二年時における古市町並図」を参考にしますと、「伊勢古市のあれこれ」には方角が合わない?記述もありますが、塩屋道はここから小学校東側の路地に通じていたと推測されます。
明治40年(1907年)に修道小学校が西裏の大林寺横からここに移転する以前には、岳道(たけみち)と交差したあと、いまの修道小学校を突き抜けていたとあります。明治40年の修道小学校移転、明治43年(1910年)の御幸通り開通、大正5年(1916年)からの神宮皇學館(現在の皇學館大学)用地の造成により倉田山の塩屋道は原型をとどめなくなりました。
20mほど西に進みますと岳道と塩屋道の交差点があります。右側が岳道で画像右奥が岳道の起点方面になります。左側が塩屋道で画像左奥が古市郵便局方面になります。
江戸時代の古市は参宮道上にあったというだけでなく、楠部・朝熊へ行くにも、二見・鳥羽方面に向かうにも一度は古市を経由しなければならず交通の要衝でありました。上の画像の地点は面影は全くありませんが、まさしく要衝中の要衝だったところになりますね。
塩屋道を少し進んだ地点の画像です。車が通れる道幅はありません。
地元住民しか通らない細い路地ですが、延暦23年(804年)の「円暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)」に御塩殿と御塩焼殿が記されていますので、少なくとも1200年は存在する道なのですね。
もう少し進みますと伊勢街道(古市街道)が見えてきます。
伊勢街道に出たところの画像です。岳道との交差点からは120mほどになります。
古市郵便局前辺りから塩屋道の入口を撮影した画像です。画像中央の細い路地が塩屋道の入口で左側の道路が伊勢街道(古市街道、画像左奥が外宮方面)、右側が昭和3年(1928年)に開通した俗称:徴古館道になります。
出典:明治31年 執行猪太郎発行 関西参宮鉄道案内記、昭和51年 三重県郷土資料刊行会発行野村可通著 伊勢古市のあれこれ、昭和56年 古川書店発行 中川竫梵著 伊勢古市の文学と歴史、wikipedia