町並みの今昔 商店編

朝熊岳 萬金丹本舗跡 野間圀彦 金剛證寺 万金丹

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現在、伊勢くすり本舗が販売している萬金丹

萬金丹(まんきんたん)は古くより庶民に親しまれた伊勢特産の丸薬で、主な効能は食べ過ぎ・飲み過ぎ・胸やけ・胃もたれ・はきけなど胃腸の不調の改善をはじめ、その他の諸病にも効く万能薬としてお伊勢参りのお土産として人気を博しました。

江戸時代、お伊勢参りは「一生に一度はお伊勢さん」と言われ庶民の憧れでしたが、多額の旅費がかかったために誰もが参宮できるわけではありませんでした。そこで地域や職場で「伊勢講(いせこう)」がつくられ、積み立てや講の田を決めて旅費を貯め、講を組んだ仲間から数人の代表が参宮する「代参」を行いました。そして代参人は講仲間へのお土産として、荷物にならず、実益のあるものとして喜ばれる萬金丹を選びました。

「越中富山の反魂丹(はんごんたん)、鼻くそ丸めて萬金丹、それを呑む奴アンポンタン」という俗謡も、全国的に知られた萬金丹に比べて知名度の低かった反魂丹の宣伝のために広められたそうです。

江戸時代に野間因幡掾(いなばのじょう)が発行した広告「霊方萬金丹」の画像です。

萬金丹は野間萬金丹の専売ではなく、他に明王院護摩堂萬金丹・秋田教方萬金丹・小西萬金丹があり、それぞれが伊勢市内に出店を構えて販路を広げていました。その中でも古くから親しまれてきた野間萬金丹が最も勢いがありました。

大正時代に発行されたと思われる旅館豆腐屋スタンプ印のある絵はがき「伊勢朝熊岳 万金丹本舗」の画像です。立派な門もある店舗ですね。

同じく大正中期以降に発行された絵はがき「伊勢朝熊岳 萬金丹本舗」の画像です。こちらの画像には通行人も写っています。

野間氏は平治年中(1159~1160年)、鎌田右兵衛政清の一子・二朗に起こり尾張国野間(現在の愛知県知多郡美浜町野間)の大坊代官を務めていましたが、応永年間(1394~1427年)に仏地禅師東岳和尚に従って朝熊岳の金剛証寺に移住し、そしてある夜に虚空蔵菩薩の霊夢(れいむ)によって霊薬萬金丹の秘法を感得したと伝わります。

その後、京都の宮家に献上するに至って官名を拝し、益々名声を得ました。そして野間斎宮は明治3年(1870年)3月に野間圀彦(くにひこ)と改名しました。大正14年(1925年)8月には朝熊登山鉄道(ケーブルカー)が開業しました。

ケーブルカー開業後に発行されたパンフレット「朝熊岳案内」にある鳥瞰図の画像です。右側には旅館東風屋(豆腐屋)、左側に萬金丹の宣伝が入っていますね。ケーブルカーの山上駅から金剛證寺へ行くには必ず萬金丹本舗前を通るので繁盛したことでしょう。

絵はがき「伊勢朝熊岳 萬金丹本舗」と同じ角度で撮影した現在の画像です。建物は残っていませんが基礎は一部残っています。画像の右側に見える道路は伊勢志摩スカイライン(e-Power Road)です。

昭和19年(1944年)1月に太平洋戦争の戦時下における不要不急路線として朝熊登山鉄道が休止になり朝熊詣が激減し、そして敗戦を迎えます。さらに昭和34年(1959年)9月の伊勢湾台風により朝熊岳の本店は大被害を受け閉鎖されてしまいました。

その後は尾上町の支店のみの営業となり野間製薬が販売していましたが、昭和50年(1975年)頃についに廃業となってしまいました。

跡地には大量の瓦が散乱しています。

割れた鬼瓦もあります。

近くには「うどん そば」と書かれた看板もあります。伊勢志摩スカイラインが開通する昭和39年(1964年)ころまでは営業していたのでしょうか?その奥には鉄製の竃もあります。

萬金丹本舗跡から少し内宮寄りのところには立派な石垣とその上に瓦で積み上げられた土塀が残っています。

金剛證寺の仁王門の画像です。

萬金丹本舗跡は仁王門の石段下の説明看板から向かって左側の旧参道を5分くらい進んだところにあります。

旧参道を少し進んだ左側には「おちんこ地蔵尊」がお祀りされています。画像にあるように子宝を授けてくれる御利益があります。

もうしばらく進むと極楽橋があります(画像奥が金剛證寺)。慶長年間(1596~1615年)に造られた石橋で伊勢市の有形文化財にも指定されています。極楽橋のもう少し先に萬金丹本舗跡があります。

出典:三重県ホームページ 三重の歴史・文化散策マップ 野間万金丹本舗跡、伊勢市立図書館ホームページ ふるさとの風 萬金丹、昭和51年 三重県郷土資料刊行会発行 野村可通著 伊勢の古市夜話

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