伊勢の名物グルメとして「伊勢うどん」があります。モチモチの極太うどんをたまり醤油を使った濃厚なタレで食べる伊勢地区独特のうどんになります。今回はその伊勢うどんのルーツを探ってみたいと思います。
伊勢うどんは江戸時代以前から当地の農民が食べていた地味噌のたまりをつけたうどんを改良したものと云われています。
明治29年(1896年)に小柳津篤太郎から発行された「神都土産繁昌記」に掲載されている「本家 豆腐六」の広告の画像です。豆腐六と書いて「どぶろく」と読み、昭和46年(1971年)に三重県郷土資料刊行会から発行された野村可通著「伊勢古市考」では「どぶ六」と表記されています。
うどんの「ど」は「登」の変体仮名に「〃」がついたものになります。「不相變(あいかわらず)御ひゐ記(ごひいき)をいのり升(ます)」と読み、「變」は「変」の異字体になります。
「名物 うどん」とありますが当時はまだ「伊勢うどん」という名称は無く、単に「うどん」と呼ばれていました。「伊勢うどん」という名称は昭和40年代ころに使われ出したと云われています。
豆腐六は天明2年(1782年)の「古市町並図」に記載がありそれ以前からありました。外宮と内宮を結ぶ古市街道沿いの下中之地蔵(現在の伊勢市中之町)、長峯神社(ながみねじんじゃ)の近くにありました。
長峯神社の道路の反対側やや右にある「榎谷」に通じる路地の画像です。「古市町並図」に記載があるので、天明期以前からある路地になります。道幅が狭く車は通れません。
榎谷から少し南側に「稲荷町」に通じる路地があります。この路地も「古市町並図」に記載がありますので天明期以前から存在する路地になります。
「古市町並図」によりますと「稲荷町」へ通じる路地から南側三軒目に豆腐六の記載がありますので、画像の電信柱の反対側辺りに豆腐六はあったと思われます。豆腐六は荒格子づくりの大きな店構えだったそうです。明治期に入ると豆腐六の南隣りには大安旅館が開業しました。
豆腐六のうどんはお伊勢参りの目的のひとつでもあって、豆腐六のうどんを食べてきたと言えば、結構な土産話になったというくらい有名であったそうです。
中里介山(なかざと かいざん、1885年~1944年)の長編時代小説「大菩薩峠」のうち大正6年(1917年)に連載された「間の山(あいのやま)の巻」に「どぶ六のうどんは雪のように白くて玉のように太い、それに墨のように黒い醤油を十滴ほどかけて食う、このうどんを生きているうちに食わなければ、死んで閻魔さんにしかられると、土地の人にこう言い囃される」と紹介されています。この説明文からして、まさしく現在の「伊勢うどん」そのものであります。
よって当時は「伊勢うどん」という名称はついてませんでしたが、「元祖伊勢うどん」といえるうどん屋は豆腐六だったと推測されます。「どぶろくのうどん」が現在の「伊勢うどん」を指していたのでしょう。
「神都土産繁昌記」にある名誉見立三副対の麺類の項に「中ノ町豆小六 三宅六三郎」とあり明治中期でも神都(現在の伊勢市)の三大うどん店のひとつでありました。豆小六=豆腐六だと思われます。
昭和51年に三重県郷土資料刊行会から発行された野村可通著「伊勢古市のあれこれ」によりますと寂照寺(じゃくしょうじ)前にも「伊勢屋」といううどん屋があり、豆腐六とともにかなり繁昌していたそうです。近くにはひきのべうどんの「いづみや」があり、豆腐六の丸いうどんと対照的な平たいうどんで繁昌していたそうです。
明治36年(1903年)2月、うどん屋「伊勢屋」が火元となって二十数軒が類焼する火事があり、豆腐六は大安旅館などとともに焼失してしまいました。豆腐六は営業を再開することなく、豆腐六の敷地は再建された大安旅館に吸収されました。
旅館大安から発行された5枚組の絵はがきのうち「伊勢古市 旅館大安」の画像です。豆腐六の敷地を吸収し、間口も広くなって再建された後の大安旅館の画像になります。画像の右端辺りが豆腐六があった場所になると思われます。
大安旅館は明治、大正と繁昌を続けましたが古市の衰退とともに勢いがなくなって、ついに昭和47年頃に廃業状態となり、その後,建物は解体され現在のような住宅地になりました。
アイキャッチ画像は宇治山田駅近くの「ちとせ」さんの伊勢うどんになります。
上の画像は伊勢市駅近くの「山口屋」さんの美味しい油あげが敷き詰められた「きつね伊勢うどん」の画像になります。
出典:明治29年 小柳津篤太郎発行 神都土産繁昌記、昭和46年 三重県郷土資料刊行会発行 野村可通著 伊勢古市考、昭和51年 三重県郷土資料刊行会発行野村可通著 伊勢古市のあれこれ、昭和56年 古川書店発行 中川竫梵著 伊勢古市の文学と歴史、wikipedia