町並みの今昔 道路編

御幸道路①(御成街道)外宮前 山田郵便局 錦水橋 神宮徴古館 御幸通り

御幸道路(みゆきどうろ)が開通するまでの外宮と内宮を結ぶ主要道路は、岡本町から古市を越え、宇治浦田町に至る古市街道であり、国道に指定されておりました。古市街道は幅員が狭く急勾配であり、明治2年(1869年)に明治天皇が初めて神宮へ行幸した際には不便な道路が問題視されました。明治39年(1906年)、三重県は古市街道の改修か新しい街道の整備を検討し、その結果古市街道より東の倉田山を通る新しい道路の建設を決定しました。明治40年(1907年)6月に用地買収を開始し、明治43年(1910年)3月に完成しました。

大正7年以降に発行された絵はがき「外宮前御幸通り」の画像です。画像の右側にある建物は明治42年(1909年)に建設された「山田郵便局」です。山田郵便局は昭和42年(1967年)に移転し、昭和44年に愛知県犬山市の明治村に移築されました。画像の左側の木々は外宮の杜です。

画像中央の電車は伊勢電気鉄道(大神宮前駅を開業した伊勢電気鉄道とは別会社)が明治44年(1911年)に開通させた路面電車です。伊勢電気鉄道は大正11年(1922年)に三重合同電気(みえごうどうでんき)となり、その後合同電気、東邦電力、神都交通を経て三重交通・神都線となり、昭和36年(1961年)1月に廃線となりました。

現在の様子です。御幸道路開通当時より道路も拡張されていると思いますので、山田郵便局は現在の御木本道路(みきもとどうろ)上に半分架かっていたと思われます。画像左側が外宮の杜です。

昭和6年(1931年)駸々堂旅行案内部発行の「伊勢参宮案内地図」の外宮前の拡大図です。当時は外宮表参道入口から御幸道路が一直線になっていますが、現在は道路が付け替えられ、山田郵便局辺りからその東側にかけてバス乗り場が整備されていて、南島線と御幸道路が一直線となっております。

大正7年以降にYOKKAICHI TSUNEKAWAから発行された絵はがき「外宮前御幸通」の画像です。最初の絵はがきと逆の角度(外宮前から倉田山方面)で撮影された絵はがきです。画像中央が山田郵便局で、右側の建物が路面電車の外宮前停留所の建物になります。

現在の様子です。左側の建物が観光案内所です。バスの止まっている辺りが山田郵便局があった場所になります。

画像奥が外宮方面

大正7年以前に発行された絵はがき「(伊勢)山田錦水橋(外宮御山遠望)」の画像です。錦水橋(きんすいばし)から外宮高倉山方面を撮影した画像です。昭和8年(1933年)に路面が舗装されたそうです。右側には路面電車の線路が見えます。

画像奥が外宮方面

現在の錦水橋の様子です。開通当時から現在と変わらないくらい橋の幅がありますね。

画像奥が内宮方面

大正7年以降にYOKKAICHI TSUNEKAWAから発行された絵はがき「伊勢名勝 徴古館」の画像です。徴古館は明治42年(1909年)にベルサイユ宮殿を模した前庭を持つルネッサンス式の西洋風で正面中央にドームを配した高い屋根を持つ鉄筋コンクリート造りで建築されましたが、昭和20年(1945年)の宇治山田空襲により被災し、外壁を残すのみとなりました。昭和28年(1953年)に第59回神宮式年遷宮を記念し、修復されましたが、ドーム型の屋根は再現されませんでした。

現在の様子です。皇学館大学入口の信号の辺りになります。斜面に生えている木々で少し見えにくくなっておりますが、徴古館の屋根の中央はなだらかな三角形です。

画像奥が外宮方面

大正7年以降に発行、撮影は明治の終わり頃から大正初期の絵はがき「伊勢名勝 徴古館及御幸通」の画像です。内宮方面から徴古館を撮影した絵はがきです。左側に見える石碑は明治44年(1911年)3月に建てられた神苑会記念碑です。

現在の様子です。ちょうど倭姫前(やまとひめまえ)の信号の辺りになります。画像右側の門は、御師・福島御塩焼大夫(ふくしまみさきだゆう)邸の門として創建され、昭和10年(1935年)に神宮文庫の黒門として移築された門であります。

神苑会記念碑です。記念碑の上部には「崇敬致誠」と刻まれています。

出典:wikipedia

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